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観る(大人のための観光ガイド)

 甲府は、武田信玄や太宰治の歴史がたどれる寺社などが多く、歴史ファンのみならず多くの人が訪れます。
 また美術館やランドマークなどもあり、見どころいっぱいの街です。
 そんな甲府を訪れる大人の旅のために、地元の者しか知らないちょっとだけ詳しい話を加えて、ご紹介します。


じっくり甲府を楽しむ大人には見逃せない観光スポット

大泉寺

 万年山大泉寺は山梨県甲府市古府中町に境内を構えてる曹洞宗の寺院です。
 大泉寺の創建は不詳ですが当初は巨摩郡島上条に境内を構え大川寺と称する密教系の寺院だったとされ、永正16年(1519)に武田信玄の父武田信虎が居城を石和から躑躅ヶ崎館(武田氏館)に定め城下町が整備されると大永元年(1521)には大川寺も現在地に移されます。

 信虎は天桂禅師(真翁宗見の法嗣)を招いて曹洞宗に改宗開山し寺号も法名「大泉寺殿泰雲存康大庵主」に因み大泉寺に改称、自らの菩提寺としました。

 その後、武田信玄、勝頼父子から庇護された事で寺運が隆盛し甲斐国領国内の曹洞宗寺院を統括する僧録所となり、住職も吸江英心(信虎の弟)など武田家一族を迎えるなどしています
 
 武田信虎は、武田五郎信縄(のぶつな、1471~1507)の長男として明応3年(1494)1月6日、石和の川田居館で生まれ幼名を川田五郎と呼ばれます。
 永正4年(1507)14歳の時、武田氏第18代の甲斐国主となり国内の同族を統一し、永正17年(1520)従五位下左京太夫陸奥守に任ぜられます。
 戦国武将としても名高く、「甲斐の国の府中」という意味から「甲府」と名付けたののも武田信虎その人です。

 永正4年(1507)武田氏の家督を継ぎ、武力を持って甲斐国内の統一の成功したのですが、やがて嫡子晴信(信玄)と対立、駿河(静岡県)に追われます。信玄に甲斐を追われた信虎は信玄存命中は一度も彼の領土に足を入れた事はありませんが、信玄の死後陣代となった勝頼の時代、天正2年(1574)には三男の信兼の居城である伊那・高遠城に身を寄せていたようですが同年3月5日に同所で享年81歳で息を引取ります。
 遺体は移送され、龍雲寺(長野県佐久市)の大禅師北高全祝が招かれて、信虎自身が創建したここ大泉寺で葬儀が執り行われています。遺骸もここに埋葬されました。

 武田信虎の詳しい説明はこちら

 霊廟には信虎、信玄、勝頼三代の肖像が安置されており、他武田家に関する遺品が残されている場所でもあるので、信玄ファンにはぜひ訪れていただきたいお寺です。

 また、大泉寺の寺宝である絹本著色武田信虎像は、信虎の死後、武田信虎三男の逍遥軒が菩提を弔うために製作寄進したもので昭和10年(1935)に国指定重要文化財に指定されています。
 その他にも信虎が寄進したと伝わる絹本墨画松梅図(中国元時代、呉太素筆)が昭和30年(1955)に国指定重要文化財、武田信虎の墓が山梨県指定史跡、武田家(晴信、信玄、勝頼)や浅野家(忠吉、幸長)、豊臣家(秀勝)、平岡家関係の判物、判状などの大泉寺文書(20点)が昭和55年(1980)に山梨県有形文化財、武田信虎、信玄が利用したと伝わる金銅金具装笈(桧材、漆塗、出陣の際には持仏を入れ戦に望んだとされる。)が昭和63年(1988)に山梨県指定文化財にそれぞれ指定されています。

 戦災のため法堂、庫裏などを焼失しましたが、幸にして宝蔵、武田三代霊廟、総門は戦火をまぬがれ残りました。
 境内に八房梅があり、春頃になるとっても美しい花を咲かせることでも有名な場所です。 秋になると、山門脇の紅葉がきれいに色づき、風情豊かな空間を満喫できます。


詳細情報
名称 大泉寺
住所 甲府市古府中町5015
アクセス 甲府駅から徒歩15分
(車)甲府昭和ICから約20分


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