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学ぶ(甲府の歴史、それは信玄公の足跡を追いかけること)

 武田信虎は永正16年(1519)、躑躅が崎の地に館を築いて新たな本拠としました。その翌年、緊急時に避難のために立てこもる詰城として、背後の要害山に城を築いています。

 甲府は、武田氏のふるさとです。武田氏に関わる様々な史跡も多くあります。
 そんな甲府を訪れる大人の旅のために、ガイドブックには載っていないようなちょっとだけ詳しい話を加えて、甲府、、武田氏の歴史を紹介します。


武田氏の館・城を訪ね歩き

要害

 積翠寺背後の釣り鐘をふせたような要害山に、信玄公の父・武田信虎が永正17年(1520)に築いたのが要害山城です。躑躅ヶ崎館が窮地に陥ったときの避難先として築城されたのが、要害山城です。実際に、武田信玄を懐妊中だった大井の方も、この城に避難しているときに出産しました。
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 さて、若くして家督を継いだ信虎は、永正16(1519)年、躑躅ヶ崎の地に館を築いて新たな本拠とし同年12月には新館に入ります。

 自ら移転するだけではなく服従する国人たちにも移住を強制したようです。
 甲斐国内で反乱を起こした油川氏や小山田氏らの武将を次々と平定し、武田氏館の周辺に集住させて監視を強化しました。
 これに対し自らの土地に愛着を持つ国人達の反発は必至で、栗原氏、大井氏、逸見氏等は城下を引き払いそれぞれの所領に籠りますが、信虎はこれを許さず武力で3氏を制圧し甲斐における政治中心地の礎とします。

 しかし駿河の今川氏に甲斐へ攻め込まれた信虎は、躑躅ヶ崎の館を完成した翌年、緊急時に避難のために立てこもる詰城として、要害山城を築き、周辺にも支城を配置して本拠地の防備を固めました。
 『高白斎記』に拠れば、築城は武田信虎時代の永正17年(1520年)6月であるといいます。前述のとおり武田氏は前年に居館を石和の川田館(甲府市川田町)から躑躅ヶ崎館(甲府市古府中町)へ移しており、駒井政武の領地であった積翠寺郷の丸山が城として取り立てられ、館の詰城として砦や狼煙台が築かれたといいます。
 
 要害山の標高は770m。山頂を整形して主郭とし、山腹から主郭に至る通路に沿って枡形虎口(ますがたこぐち)に伴う門と郭(くるわ)が複雑かつ連続して付設されおり、防備を固めています。竪堀(たてぼり)や堀切(ほりぎり)も要所に設けて防御を固めている様子は、戦国時代の緊迫した状況を今に伝えています。

 大永元(1521)年には、駿河国・今川氏親の属将であった福島正成が甲斐に侵攻して河内を占領し、迎撃してきた信虎軍を蹴散らすと、大島(現身延町)の戦いで勝利、富士川をさかのぼって甲府盆地西南部の冨田城(現南アルプス市)を制圧し甲府に迫ります。

 接近する今川軍は竜地(現双葉町)に布陣、この危機に信虎は正室・大井夫人を要害山に避難させ、自身は再び軍を率いて飯田河原、上条河原での2回にわたり戦いを挑み、福島正成を討取り勝利を収め撃退、敗走させました。
 この直後、要害山城に避難していた大井夫人は嫡男の太郎(のちの晴信、法号は信玄)を出産した(一説には山裾の積翠寺)といわれています。
 
 要害山城はその後、信虎・信玄・勝頼と三代にわたって使用されたが実戦で使われたのはこの時ぐらいと思われます。

 躑躅ヶ崎館と同じく、武田信虎、武田信玄、武田勝頼の武田家3代に拠点として利用された要害山城でしたが、天正10(1582)年に武田氏が滅亡した後は織田氏・徳川氏が甲斐を支配し、天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原仕置後は羽柴秀勝が入国して甲府城を完成させると、躑躅ヶ崎館は廃城にされ、慶長5(1600)年の終りには要害山城も廃城にしました。

 現在、要害山城跡には「武田信玄公誕生之地」の石碑や「武田不動尊」の石像が立っています。遊歩道が整備され、山頂(城の主郭部)までは約30分。土塁や堀跡など城の遺構も見ることができます。


詳細情報
名称 要害
住所 〒400-0011 山梨県甲府市上積翠寺町
アクセス JR中央本線・甲府駅からバスに乗り「積翠寺」バス停下車、登城口まで徒歩15分


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