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天狗さらい 仙境異聞〜天狗参上

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天狗さらい 仙境異聞

 

 江戸時代には、多数の人たちが天狗学とも言うべき研究を行いました。その中には、江戸時代初期の儒学の大家である林羅山、江戸時代中期に幕政にも大きな影響力を持った学者の新井白石、同じく中期の儒学者で思想家の荻生徂徠といった高名な学者たちが含まれています。

 なかでも幕末の国学者で思想家の平田篤胤は、死後の幽界やこの世ではない異界などに大きく関心を持った学者です。平田篤胤は、林羅山たちに影響を受けながら天狗研究も行い、「天狗さらい」にあったという寅吉少年の体験談を『仙境異聞』という書物にまとめています。

 文政3年(1820年)の秋、天狗界に出入りができるという「天狗小僧」と呼ばれた寅吉少年が評判となりました。天狗の世界に誘われ、何年もの間そこで過ごした少年が戻ってきたというのです。その少年、寅吉の語る異界の様子は驚くべきものでした。

 この話は、当初、山崎美成(よししげ)が『平児代答』として著し、その後、篤胤が、高山寅吉(仙道寅吉)の体験談を問答というかたちで記録した大部の『仙境異聞』ににまとめあげたのでした。

 しかし、『仙境異聞』は書かれた後、長らく門外不出の書物であり、高弟でも見ることができなかったと言われています。

 さて、寅吉の母によると、寅吉は5,6歳の頃より未来の出来事を言い当てたり、無くなったもののありかを探し当てたりと、不思議な能力を発揮する子供だったといいます。今でいう予知能力や千里眼をもった超能力少年ということでしょうか。
 例えば、下谷広小路に火事があった前日に、家の棟に上って「広小路に火事がある」と叫んだり、またある時は、父に向かって、「明日は怪我をするから用心せよ」と言ったり(父は信用しなかったが、その通り大怪我をしてしまった)、またある時は、「今夜は必ず盗人が入る」と言ったら、果たして盗人が入ったこともあったといいます。
 また、まだ一人で立つこともできず、はいはいしていた頃のことを鮮明に覚えており、それを語りだしたこともあったという。

 そんな寅吉が、文化9年(1811年)の7歳の時に上野の東叡山寛永寺のそばの五条天神で遊んでいると、50歳ほどに見える旅姿の老翁が、小壷から丸薬を取り出して売っていたのでした。
 さて、日が暮れる頃になると、取り並べた物や敷物まで全て高さ15、6センチぐらいの小壷に入れ、遂には自らも小壷に入ろうとしたのです。
 その様子を見ていたところ、片足を踏み入れたように見えたその瞬間、全て入り、小壷も虚空に飛び上がってどこかへ行ってしまったのです。

 寅吉は奇妙に思ってその後もそこに行って夕暮れまで見ていたのだが、ある時その老翁に言葉をかけられ、「お前もこの壷に入れ、面白いものを見せてやろう」と言われます。

 寅吉は気味が悪くて一度は辞退したのですが、「この壷に入って私と一緒に行けば卜占のことを教えてやろう」と言われます。もともと卜占のことを知りたかった寅吉は、行ってみたいという気持ちになり、壷の中に入ったような気がした途端、気がつくと、常陸国(茨城県)の加波山と吾国山の間にある南台丈という山に立っていました。

 子供だった寅吉が泣きじゃくると「ならば家に送り帰してやろう。しかしこのことは誰にも語ることなく、毎日五条天神の前に来るのだ。私が送り迎えして卜占を教えてやろう」と言い聞かせるや、背負って目を閉じさせ、大空に昇ったのです。ザワザワと鳴るような気がすると、すでに家の前であったといいます。

 そして、ここでも「このことは決して人に語ってはならない。語ればお前の身のために良くない」と諭して、老翁は見えなくなった。それ以来、寅吉はその戒めを固く守り、父母にもそのことを話さなかったという。

さて、約束通りに翌日の昼過ぎ頃、五条天神の前に行くと例の老翁が来ており、寅吉を背負って山に至ったのだが、ここでは何も教えず、いろいろな山々に連れて行って種々のことを見覚えさせ、花を折り、鳥を捕っては、川の魚などを捕って寅吉を慰め、夕暮れになると例のように背負って帰った。

 やがて寅吉は岩間山という山に連れて行かれ、まず百日断食の修行を行い、書法や武術の法、また神道に関すること、祈祷やまじないの法、符字の記し方、幣(ぬさ)の切り方、医薬の製法、種々の占法、仏道諸宗の秘事経文、その他様々なことを教えられたのです。寅吉は「高山白石平馬」という名前をもらいます。

 それにしても両親を始め人にはそのことを語らなかったので、誰も知る人はいなかった。そのうち黙って家を出ても尋ねられもせず、10日から100日ほども山にいたこともしばしばあったのだが、どういう訳か両親も家の者たちも寅吉が久しく家にいないとは思ってなかったようだった。

 このように山に往来したのは、寅吉が7歳の夏より11歳の10月までの5年間だが、12,3歳頃には老人が江戸に現れて術を教えるようになりました。

 15歳になると師である老人と一緒に空を飛び、江戸から鎌倉、江ノ島、伊勢神宮などを参拝して廻り、中国にまで行って帰って来たのだそうです。

 寅吉と篤胤らの問答は、仙境の様子だけではなく、地震の原因や、宇宙のことなど多岐にわたっています。ありとあらゆる分野にわたる質問に答えるという形で語られる異界の情報は、聞けば聞くほど、神、天狗、妖怪、仙人、異界といった「あちらの世界」に人並み以上の関心を持っていた平田篤胤の考える「異界」の姿そのものであるとの確信を深めました。そうです。寅吉の語る異界は天狗界そのものであったわけです。

 そうです。寅吉少年に様々な術や学問を教えた師である老人は、実は、常陸国岩間山(現在の愛宕山)に棲む「杉山僧正」という大天狗だったのです。はじめは岩間山には杉山僧正を首領とする5人の天狗が住んでいましたが、だんだんふえて十二天狗になりその後、狢打村の長楽寺から一天狗が加わって十三天狗になりました。

 一方、寅吉はその後、下総(千葉県)の諏訪神社で神職となり、天狗から教わった秘薬で病人を治しました。寅吉がもうけた子供はその秘薬を受け継ぎ、薬湯に入れる天狗湯という湯屋を営んで繁盛し、昭和の時代まで長く続いたということです。

 平成13年1月、笠間市(旧・西茨城郡岩間町)の愛宕山山頂にある愛宕神社への石段の登り口に、地元の有志によって「篤胤歌碑」が建立されました。歌は、文政3年10月篤胤から山に帰る寅吉に贈られたもので、次の通りです。

 「寅吉が山にし入らば幽世(かくりよ)の、知らえぬ道を誰にか問はむ。」
 「いく度も千里の山よありかよひ、言(こと)をしへてよ寅吉の子や。」
 「神習ふわが万齢(よろずよ)を祈りたべと、山人たちに言伝(ことづて)をせよ。」
 「万齢を祈り給はむ礼代(いやしろ)は、我が身のほどに月ごとにせむ。」
 「神の道に惜しくこそあれ然(さ)もなくば、さしも命のをしけくもなし。」

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