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天狗は数々の軍記物に登場し、天下動乱を引き起こす妖怪と変貌〜天狗参上

天狗の変遷concept



  平安時代の天狗
  鎌倉時代から南北朝時代の天狗
  室町時代の天狗
  江戸時代の天狗
  明治時代の天狗

鎌倉時代から南北朝時代の天狗

平家物語に見る天狗

 武家中心の政治が始まるとともに、天狗は数々の軍記物に登場し、天下動乱を引き起こす妖怪といった、政治的な性格が強調されるようになります。

 中国から伝わった天狗は、敗軍や将軍の死亡といった凶兆を示すものでしたから日本においても戦乱の時期、つまり、源平の乱、南北朝時代、戦国時代と、武家による戦乱が続いた時代には、天狗にとって絶好の環境だったかもしれません。

 この頃になると、強い怨念を持って死んだ者が天狗になるという考え方が生まれてきます。仏教の悪魔的存在の魔縁も、こうした怨霊の化した天狗と見なされるようになるのです。
 また怨霊が人に憑いたことを天狗憑きと称することもあったようです。

 「平家物語」には、次のような言葉があります。
 「天狗と申すは人にて人ならず、鳥にて鳥ならず、犬にて犬ならず、足手は人、かしらは犬、左右に羽根生え、飛びあるくものなり。人の心を転ずる事、上戸のよき酒をのめるが如し。小通を得て知らぬことをば、知らずといえへども未来をば悟る。是れと申すは持戒のひじり、もしくは智者などの我れに過ぎたる者あらじと慢心御こしたる故に、仏にもならず悪道にも落ちずしてかゝる天狗といふ物に成るなり。」
 ここでは、慢心した悪徳坊主が天狗になるという説明がされているようです。

 また、容姿については、二足歩行をする怪鳥から大きく変わり、「かしらは犬」となったようで、ここにおいては、中国の天狗のイメージに戻ったのではないでしょうか。

 このように平安時代から鎌倉時代にかけての天狗は、トビやノスリなどが化けた妖怪で、お坊さまの修行の邪魔をしたり、政府に反逆をしかけたりする妖怪として描かれているようです。

 また、とても高貴な人が権力争いに敗れ、悔しい思いを残したまま亡くなると、その恨みが残って天狗になる場合もありました。後ほど述べる崇徳上皇がここで登場するのです。

 平家一門の為に無理に退位させられ、保元の乱を起こしたが失敗、四国に流され深い恨みを抱えたままその地で没したが、天狗の頭領となって世に災いをもたらすために復活する。

 まさに人間界で頂上にいた者が天狗の世界でも君臨するわけですから、それまで活躍していた天狗たちは、さぞかし肩身の狭い思いだったのではないでしょうか。
 天狗たちの姿は、人間の怨霊が天狗になるという考えが優勢になったことにより、より人間的な姿形をもった天狗になるわけです。



是害坊絵巻に見る天狗

 鎌倉時代になると、天狗はしばしば「山伏」の形をするようになります。この時代、比叡山や三井寺など体制派密教寺院は、山伏の修験道を邪教扱いし、弾圧していましたので、山伏の姿をした天狗とは、体制にとって邪教徒である事の隠喩であったと考えられます。

 ところで仏法の正しい教えからはずれた法術、私利私欲を満たすために,他人を犠牲にすることをも恐れない法術のことを「外法」といいますが,天狗の行う法術(呪術)は外法であると考えられています。

 天狗のことを外法様,その術を行うことのできる僧を外法僧ということがあるのはこのためです。外法僧の多くは,山伏や陰陽師たちであったといいます。

 また、天狗は密教僧そのものでもありました。というのも鎌倉時代、比叡山や興福寺の僧は自らの主張を通すために武装し、時には都で狼藉を働いた者もいたようです。

 その僧兵の姿を、庶民は天狗になぞらえたと思われます。確かに中世期のお伽草子には僧兵の姿をした天狗がしばしば登場しています。

 さて、延暦寺には、「是害坊絵詞(ぜがいぼうえじ)」という絵巻物が伝わっています。これは鎌倉中期に描かれたもので、『今昔物語』の天狗譚にもとづく絵巻ですが、唐の天狗是害坊が、自らの強さを吹聴し、比叡山の僧と法力競べを行うのですが、これに敗れて怪我をし、日本の天狗に湯治などの介抱を受けて本復、送別の歌会ののち帰国するという内容です。

 天狗たちの力あふれ活動する姿や賀茂川など自然へのやさしい思いなどがうまく組み込まれ見事なまでの聞くものを思わず納得させてしまうような説話が繰り広げられますが、絵巻の詞書は漢字仮名まじりの青蓮院流の書体で、かなり上流階級で鑑賞されたのではないかと考えられているようです。

 そして延暦寺は、こういった絵巻を当然のことながら布教に利用したと考えられます。ここに描かれた天狗はすでに山伏の姿をしていますが、この絵巻物は後に能の「善界(ぜかい)」となり一層の展開をしていくことになります。

 さて、その能の「善界(ぜかい)」の内容は以下のようなものです。

「大唐の天狗の首領である善界坊は、育王山青龍寺、般若台に至るまで、慢心した連中はすべて天狗道に誘い入れた。中国はこれまでと、次に日本の仏法を妨げてやろうと考え、はるばる日本にやってきました。そこで、まずは愛宕山の太郎坊を訪れ協力を頼みます。

 太郎坊は、比叡山こそ日本の天台山であるからそこを窺うように勧め、二人で比叡山に向かい山裾で姿をけして窺っていました。一方、比叡山では飯室の僧正が勅命を受けて参内する為に、従僧二人を供に下山していると、急に嵐となり風雨激しく雷も鳴り響くとともに、善界坊が天狗の姿で現われ、邪法を唱えて僧正達を魔道に誘い入れようとします。

 そこで僧正が不動明王に祈りを捧げますと、明王諸天、山王権現をはじめ北野や加茂の神々も助けにあらわれ、これに立ち向かった善界坊は、遂に力尽き、これほどまでに神仏の力が盛んな日本へは二度とは来るものかと言うなり、空に消えて行くのでした。」



太平記に見る天狗

 南北朝時代を舞台にした軍記物「太平記」では、いよいよ天狗の法力が高まり、政治の表舞台にも出現するようになります。
 「太平記」は1368〜1379年に小島法師によって作られたといわれていますが、「太平記」の中では、天狗は朝廷に味方する形でたびたび登場します。

 例えば、「高時天狗舞」では、天下一大事のときに田楽舞にふける北条8代執権高時を、十数人の天狗(怪鳥の容姿)がいい様にもてあそびます。
 また、新田義貞が北条討伐の兵を挙げたときには、天狗山伏が予知能力と迅速さを生かし伝令として活躍しています。

 さらに、楠正行が戦死し足利尊氏が朝廷への圧力を強めたときには、天狗たちは仁和寺にある六本杉で「天狗評定」を行います。

 評定の最中、天狗道に堕ちたことへの罰として、参加者の全員が火に焼かれるも、二刻後には何事もなかったかのように蘇生して評定を続けたといいます。
 評定の結果決まった策略は、尊氏の弟直義の妻の子どもとして転生する、家臣たちに邪法を吹き込むといったようなものであったといいます。

「太平記」巻二十七「大稲妻天狗未来記の事」を少しひも解いてみましょう。

 鎌倉幕府が滅亡し、南北朝時代が始まり、足利尊氏が征夷大将軍となり京都に室町幕府を開いた翌年の出来事です。
 一月、明けてまもないに夜空に凶星が現れました。その後各地で異変が起こり、将軍塚から不気味な音が聞こえ、清水寺は炎上し、石清水八幡宮の宝殿が鳴動したのです。
 六月には四条河原の勧進田楽で、桟敷が倒壊し多くの死傷者が出て、その次の日、大雨がその死者を押し流してしまいました。

 その一週間ほど後の事です。出羽の国、羽黒山に雲景と言う山伏がいました。
 雲景は諸国を行脚したいと春を過ぎた頃に上京し、京の西へと向かいました。そして雲景は太政官庁の跡地辺りで、六十才位の一人の山伏に行きあいました。

 その山伏は「あなたはどこに行かれるのか」と雲景に問うのでした。雲景は「私は朝廷と将軍が敬い建立した天竜寺を一度見てみたいと思いまして、お参りするつもりです。」と答えました。

 その山伏は「天竜寺も素晴らしいが、私たちの住んでいる山こそ日本一の霊地です。おいでになりませんか」と、雲景を誘って愛宕山という高い山へと登っていきました。
 その山頂には白雲寺という立派なお寺がありましたので、雲景は、このままここで修業したいと思いました。そばにいた山伏は雲景の気持ちに気がつき本堂の後の僧坊へと案内しました。
 僧坊の奥には立派な住居があり、そこには大勢の人が集まり座っていました。
 部屋の上座には敷物を二畳敷き重ねた上に大きな金色の鳶が、そしてその右脇には、大弓、大太刀を携えた大男が、左の席には天皇の礼服の上に日月や星々を織り出した上着を着て金の笏を手にした方々が何人も座り、右の席には香染めの袈裟を着て水晶の数珠を持った方が何人も座っていました。

 雲景はこの様子に驚きをかくせず自分を案内した山伏に、「これはどのような方達の集まりでしょうか」と聞きました。
 すると山伏は、「上座に見える金色の鳶が崇徳上皇であられる。右脇の大男が筑紫八郎為朝、左の席の上から、淳仁天皇、井上皇后、後醍醐院、右の席は諸宗のすぐれた徳のある高僧たち、玄ぼう、真済、寛朝、慈慧、頼豪、仁海、尊雲などの方々が、悪魔王の棟梁となられて、今ここに集まり、天下を乱そうとご相談なされておる。」と答えました。

 そして、一座の長老格の山伏が、「ところで、あなたは都から来たようだが、都ではどんな出来事がありましたか。京の者たちどんな話をしておりますか」と、問い返しました。
 雲景は答えました。「最近では四条河原の桟敷が崩れて多くの者たちが命を落としたので、これは天狗の仕業であろうかと言い合っております。また、将軍ご兄弟が執事のために仲が悪い事もあり、これが天下の大事にならないだろうかと、もっぱら心配しております。」

 すると長老は、「四条河原の桟敷が崩れたのは私たちの仕業ではない。あれは、橋の勧進をするために僧侶がもうけたものであるのに、関白殿下や皇子、征夷大将軍、洛中の庶民、商人、雑役のものなどを、一座に雑居させたため、正八幡大菩薩も春日大明神も山王七社の神々がお嘆きになり、大地を支える堅牢地神も驚きになられ、そのために桟敷はもろくも崩れたのである。」

 「また、神道・王法共に無く、上の権威がなくなり下の者が奢って、善悪・道理をわきまえる事も無くなっている。将軍とても同じである。将軍兄弟のどちらがよいとも、執事の師直・師泰の心得違いとも言えぬ。」

 雲景は尋ねました。「神道・王法共に無く、道理も通らず、善悪もわきまえない世の仲はどうなるのでしょうか」
 長老は答えました。「まず将軍兄弟がただ一人の天子を軽く見るから、執事その他の家来も将軍を軽く見るのである。末法の世、下がまず勝って上を犯すであろう。師直がまず勝ち、世の仲は多いに乱れて、父子兄弟が互いに憎みあい、正しい政治も行われず、簡単に平和がおとずれることはなかろう。きっと百日のうちに世間が驚くような大事件、一大事が起こるであろう。」

 雲景は、ではどうしたらこの世が治まるのか尋ねようとした所、急に大人物と身分の高い方が来られたと騒がしくなり、日も暮れかけたので、「改めて参ります。」と暇を乞い寺の門を出ました。すると辺りは急に明るくなり、雲景はもとの太政官庁の跡地の椋の根元に立っていたのでした。

 雲景は自分は天狗道へ行ってきたと思いました。そしてそこで見聞きした事は世の中の戒めとなろうと急ぎ筆を取り、熊野社の護符の裏に誓文を書き添えて朝廷の上奏の役人に手渡しました。
 しかし雲景の記した天狗の未来記は、いわば体制批判にもつながりとてもおおやけにするには差し障りのあるものとしてふせられる事になりました。

 しかし天狗の言う通り、足利直義は高師直を誅殺しようとして失敗。
 八月に入ると足利尊氏と直義は、屋敷を高師直に取り囲まれ、天下は乱れて行くのでした。その年の押し詰まった晦日の夜、持明院殿に子供の首をくわえた犬が現れ、多くのものを震え上がらせたと伝えられています。

 ところでこれらの大天狗の集会するところは京都の愛宕山とされていますが,その天狗が比叡山,園城寺,東寺,醍醐寺,高野山,東大寺,興福寺などを驕慢の徒と批判風刺したのが「天狗草紙」です。



崇徳上皇の天狗化

 鎌倉時代に山伏の姿を与えられた天狗でしたが、南北朝時代に入ると怨霊が転じて天狗になる、という説がささやかれました。

 日本最強の怨霊として名高い崇徳上皇も、怨霊を経て天狗になったひとりです。上田秋成の「雨月物語」にも、崇徳院が「天狗」の眷属三百を率いて西行法師に出会うということが書かれています。南北朝の大動乱も、「太平記」によれば、崇徳天皇や後鳥羽天皇、後醍醐天皇などの不遇の天皇、あるいは玄隈、真済、慈恵、尊雲など不遇の高僧が大魔王となって起こしたものとされています。

 崇徳天皇(すとくてんのう)は、日本の第75代天皇(在位1123年 - 1142年)です。退位後は新院、讃岐院とも呼ばれました。諱を顕仁(あきひと)といいます。
 崇徳院こと顕仁は鳥羽天皇と中宮璋子との間に生まれた皇子です。
 しかし、実は中宮璋子と白河上皇との間に出来た子供だという宮廷内での噂があったといい、実際、白河上皇は顕仁を目の中に入れても痛くないくらいに溺愛したのでした。

 しかし白河上皇の死後、顕仁の父である鳥羽は、白河上皇の力によって天皇に即位した崇徳を天皇の座から引き離し、代わりに體仁(近衛天皇)を天皇にしてしまうのでした。
 そして近衛が亡くなると、今度は崇徳の子供の重仁ではなく、崇徳の弟である雅仁(後白河天皇)を天皇にしたのです。
 このような明らかな崇徳に対する嫌がらせは、鳥羽上皇の死後も続きます。保元元年(1156年)5月、鳥羽法皇が病に倒れ、7月2日申の刻(午後4時頃)に崩御した。
 崇徳院は臨終の直前に見舞いに訪れたが、対面はできなかったといいます。
 『古事談』によれば、法皇は側近の葉室惟方に自身の遺体を崇徳院に見せないよう言い残したという。

 崇徳院は憤慨して鳥羽田中殿に引き返した。とうとう崇徳は、ここで怒りを爆発させ1156年、保元の乱が起るのでした。7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂が流され、法皇の初七日の7月8日には、藤原忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が摂関家の正邸・東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至ります。

 翌10日には、藤原頼長が宇治から上洛して白河北殿に入り、崇徳院の側近である藤原教長や平家弘・源為義・平忠正などの武士が集結します。
 しかし崇徳上皇方に参じた兵力はわずかであり、崇徳院は平清盛が味方になることに一縷の望みをかけたのでした。
 しかし重仁親王の乳母・池禅尼は上皇方の敗北を予測して、子の平頼盛に清盛と協力することを命じるのでした。後白河天皇方は、武士を動員し、11日未明、白河北殿へ夜襲をかける。
 白河北殿は炎上し、崇徳院は御所を脱出して行方をくらますのでした。

 13日、逃亡していた崇徳院は仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼します。しかし覚性が申し出を断ったため、崇徳院は寛遍法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれた。23日、崇徳院は武士数十人が囲んだ網代車に乗せられ、鳥羽から船で讃岐国へ下った。ここにあえなく崇徳は敗北し、讃岐へ流されたのでした。

 その後、二度と京の地を踏むことはなく、8年後の長寛2年(1164年)8月26日、46歳で崩御しました。

 さて、崇徳院の天狗の話はこれからです。『保元物語』によると、崇徳院は讃岐国での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写本作りに専念して、戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出すのでした。
 
 ところが、少納言信西の計らいもあり後白河院は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、写本を送り返してきた。
 憎しみと怒りに焼かれた崇徳は舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込み、それを海に沈めたといいます。
 崇徳は室に閉じこもり、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、後に生きながら「天狗」になったとされています。

 安元2年(1176年)になると恐ろしいことが立て続けにおきます。このころ延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、社会の安定が崩れ長く続く動乱の始まりとなるのです。またこの年には建春門院・高松院・六条院・九条院が相次いで死去しています。

 後白河や忠通に近い人々が相次いで死去したことで、崇徳や頼長の怨霊が意識され始めます。
 その後、一族の中で唯一後白河の味方をした源義朝は平清盛に討たれ、経文を撥ね付けた信西は六条河原でさらし首にされたのです。

 精神的に追い詰められた後白河院は怨霊鎮魂のため保元の宣命を破却し、8月3日にはそれまで号を与えられず、「讃岐院」と呼ばれていた崇徳に、「崇徳院」という号を付けたのでした。





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