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修験者のルーツとされる役小角も、天狗に喩えられる〜天狗参上

天狗異聞concept



 天狗の正体はわからないものですから、昔から様々な人物(?)が、天狗ではないかと論じられてきました。このページでは、天狗と同義語としてとらえられている様々な人物を紹介します。


役小角

 天狗がしばしば山伏の姿に見立てられるのは、修験者の驚異的な能力を畏敬したことからくるようです。
 修験者のルーツとされる役小角(えんのおづぬ)も、天狗に喩えられることが多いのです。

 役小角は、後の平安時代に山岳信仰の隆盛と共に、役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれ、現在では山伏の元祖、修験道の開祖として尊崇される人物なのです。 

 701年6月7日68歳で亡くなったと伝えられています。
 1100年忌にあたる1799年、光格天皇から神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の名が贈られました。

 このように役小角は、飛鳥時代から奈良時代に活躍したとされる実在の呪術者です。姓は君といいます。
 修験道の開祖とされていますが、後の平安時代に山岳信仰の隆盛と共に、役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれるようになりました。
 役小角について史料に記されている内容はわずかであり、その生涯の殆どが伝説のなかで伝えられているのです。

 弘仁年間(810年 - 824年)に書かれた『日本霊異記』で、役小角は、仏法を厚くうやまった優婆塞(僧ではない在家の信者)として現れます。

 それによれば、若くして雲に乗って仙人と遊び、孔雀王呪経の呪法を修め、鬼神を自在に操ったといいます。左右に前鬼と後鬼を従えた図像が有名です。

 ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。

 しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。
 すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になったのです。こうして、架橋は沙汰やみになったという。

 役行者は、流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていったとも言われている。役行者が伊豆に流されたのち、一言主神はさらに託宣して、行者の死刑を求めた。

 そこで勅使が伊豆に遣わされ、いよいよ行者を斬ろうとすると、行者は抗うことなく勅使の前にうずくまり、自らを斬る刀を乞い、刀身を三度なめてこれを返し、早く斬れと言いました。見ると刀身に文が映っているではないですか。
 それは「富慈明神表文」であった。報告を受けた天皇が博士を召して解読させると、行者は凡夫ではなく、大賢聖である、直ちに死罪を免じて都に迎え、大切にせよという内容でした。

 その結果、許されて朝廷には尊信されたのだが、讒言した一言主神を怨んで呪力でこれを呪縛し、母ともども唐土へ渡り、かの国の四十人の仙人の第三座とされたといいます。

 岩窟に棲み、葛の衣を着て、松の葉を喰い、清泉を身に浴びて、けがれをすすぐ、空を飛ぶ、この一連の姿を思う時、それは仏教修行者の姿というよりは、山岳で修行する山伏(山岳修行者)の姿であり、極端に言えば天狗の姿に重なるのです。



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