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日野の新選組豆知識



新選組流派の数々

 剣術が隆盛し、現代の剣道に近い防具・竹刀を用いての稽古が一般化していた幕末。江戸では「三大道場」と呼ばれるそれぞれの流派がその名を全国に轟かせていました。

 「技の千葉」と呼ばれた千葉周作の北辰一刀流・玄武館。「力の斎藤」と呼ばれた斎藤弥九郎の神道無念流・練兵館。そして、「位(くらい)の桃井」と呼ばれた桃井春蔵の鏡新明智流・士学館。

 新選組には最大で200人を超える隊士が所属していることもあり、数多くの流派が存在しました。
天然理心流は近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎ら試衛館時代からの者が多く、北辰一刀流は藤堂平助、山南敬助、伊東甲子太郎らが、また、神道無念流は永倉新八、武田観柳斎、芹沢鴨らがいたといわれています。

 天然理心流は新選組発足まで無名の流派で、江戸三大道場よりも軽く見られており、農民も多く学んだことから「田舎剣法」や「芋道場」などと馬鹿にされることもありました。しかし、新選組の活躍により一気に注目を集めると、剣術、居合、柔術、棒術など実戦に向いた非常に強力な剣術として、その名を馳せました。

 北辰一刀流は、1821年(江戸時代後期)剣聖 千葉周作成政(1793 ?1856)によって開かれた「剣術・抜刀 術・薙刀術」から成る流派で、現代剣道の原型と言われています。文政5年(1822)に、千葉周作が日本橋品川町に設立した玄武館には、天然理心流試衛館の近藤勇らを新撰組へと呼び込むとことになる清河八郎やのちに新選組の幹部となる山南敬助、藤堂平助らが学んでいました。

 神道無念流練兵館は、竹刀剣術が全盛の時代にあって、突きや体当たり、投げ技などの荒技を推奨し、強烈かつ凄絶な稽古を展開したとされています。のちに新選組二番隊隊長となる永倉新八は、幼いころから剣術に励み、岡田十松の神道無念流に入門、15歳にして免許皆伝を果たしています。町道場で師範を務めていた彼は、近藤勇と出会い、浪士組に入隊します。池田屋事件においては、藤堂平八と共に先陣を切ったうちの一人として有名。

 こういった流派の剣客がそろっていた新選組は確かに強く、敵対していた倒幕派志士たちにとって、かなりの強敵だったといえるでしょう。



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御用改めである
日野の新選組訪ね歩き

日野は新選組副長の土方歳三や六番隊隊長の井上源三郎の出身地であり、子孫の方々が開館する資料館や数多くの史跡が残っています。これらを訪ね歩き新選組の波乱の歴史に思いを馳せます。

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