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日野の新選組豆知識



日野宿と新選組

 日野宿は、宿場としては特段大きなところではありませんが、多摩川の渡し場を管理するなど甲州道中の重要拠点でした。
 幕府の支配はゆるやかで、2人の名主と配下の組頭たちによる農民自治の伝統が長く続きました。甲州道中に現存する本陣建物は、日野宿本陣を含めて小原宿本陣(神奈川県相模原市)と下花咲宿本陣(山梨県大月市)の三箇所です。
 とりわけ、日野宿には大きな本陣と脇本陣が長屋門を構えて並び立っており、建物の規模や内容においてははるかにそれらを凌駕する威容を誇っていました。時代の推移を経て、今ではこの本陣建物だけが残されています。

 甲州道中日野宿は江戸日本橋から約10里(39.3km)の距離にあります。宿場の周囲には稲作地帯が広がり、経済的に豊かでした。
 この一帯は幕府領や旗本領であるため親幕的な気風があり、八王子千人同心の影響もあって剣術が盛んでした。 日野宿の問屋(宿場の責任者)を務め、日野本郷の名主でもあった佐藤彦五郎は、幕末期の治安悪化の中、天然理心流に入門し自宅に剣術道場を開きました。
 彦五郎の道場には、江戸の道場から近藤勇や沖田総司らが出稽古に訪れ、後に新選組を結成する剣士たちの交流は、ここから始まりました。

 また、日野を始めとする多摩地区の豪農たちは、新選組の活動を物心両面から支えました。上洛当初、近藤勇たちへの会津藩からの手当はなく、彼らの活動は日野宿の佐藤彦五郎や、小野路(町田市)の小島鹿之助などからの支援によって続けられました。 
 新選組は京都で華々しい活躍を続けましたが、彼らにゆかりの書状や遺品などは、その多くが多摩地区に残されています。
 これは、新選組の隊士たちが多摩地域の支援者に書状を綴り自分たちの想いや活躍の様子を伝えていたためです。 日野市を始めとした多摩地域は、新選組隊士たちの息づかいが伝わる資料や、ゆかりの場所が多く残る、新選組のふるさとです。
 京都で新選組を結成し、治安維持活動の後、土方歳三は時代の流れに巻き込まれながら、戊辰戦争の中、会津、函館へと転戦しました。
 そして最期を悟った土方歳三は、軍服を身に纏った自らの写真を、ふるさと日野に届けさせたのです。 
 「言」(こと)を「成」(な)し遂げる「誠」の精神を掲げ、戦い続けたラストサムライ新選組・土方歳三が、その最期に思いを馳せたのは日野市だったのです。



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御用改めである
日野の新選組訪ね歩き

日野は新選組副長の土方歳三や六番隊隊長の井上源三郎の出身地であり、子孫の方々が開館する資料館や数多くの史跡が残っています。これらを訪ね歩き新選組の波乱の歴史に思いを馳せます。

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