新選組ゆかりの人々
井上松五郎
井上松五郎(いのうえ まつごろう)は、天保2年(1831年)、武蔵国多摩郡日野宿北原(現在の東京都日野市)に、八王子千人同心井上藤左衛門の次男として生まれました。千人同心とは、江戸時代の幕府直轄の軍事組織で、多摩地域ではその農民たちから選抜された兵士たちが、治安維持や警備にあたっていました。
松五郎には、4歳下の弟がいました。後に新選組六番隊隊長となる井上源三郎です。彼ら兄弟は、地元の名主であり、天然理心流の師範でもあった佐藤彦五郎の道場で剣術を学びました。松五郎は剣の腕が立ち、弘化2年(1845年)には天然理心流の免許を取得しています。
松五郎の人生が新選組と深く交わるきっかけは、弟の源三郎が浪士組に参加したことです。文久3年(1863年)、14代将軍徳川家茂の上洛に先立ち、京都へと旅立った浪士組に、源三郎が参加しました。一方、松五郎は八王子千人同心として、将軍を護衛し、別行動で京都へ向かいます。
京都滞在中、松五郎は浪士組が分裂して結成された壬生浪士組(後の新選組)の面々と交流を深めます。特に、天然理心流の同門である近藤勇、土方歳三、沖田総司らとは親密な関係を築きました。松五郎は、京に身寄りのない彼らにとって、兄のような存在であり、その交流は日記にも克明に記されています。
その日記には、貴重なエピソードが残されています。土方歳三が「新選組が会津藩預かりとなり、浮かれて天狗になっている近藤勇を諌めてほしい」と松五郎に相談を持ちかけたというものです。これは、松五郎が新選組の相談役として、いかに信頼されていたかを物語る逸話であり、その人柄が偲ばれます。
松五郎は、慶応2年(1866年)に再び八王子千人同心として将軍警護のために大坂へ向かいます。しかし、同年12月に家茂が死去したため、長州征伐は中止となり、松五郎も日野に戻ることとなりました。
明治維新後、松五郎は新政府軍に身を投じることはなく、故郷の日野で静かに余生を過ごします。明治4年(1871年)、病のため49歳でこの世を去りました。
松五郎には井上泰助という次男がいました。泰助もまた新選組隊士として、父や叔父の源三郎とともに幕末の動乱を生きました。現在、井上源三郎資料館を運営されているのは、この松五郎さんから続くご子孫の方々です。彼らが大切に守り伝えてきた史料や話から、私たちは新選組の真の姿を知ることができます。