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新選組ゆかりの人々



佐藤源之助

 佐藤源之助が新選組の歴史に登場するのは、土方歳三との出会いからです。
 慶応3年(1867)春、歳三は所要があって、京より東下し、日野に帰り佐藤彦五郎宅に来泊します。
 この時、歳三は、17歳の源之助(土方歳三の甥)が披露する十二段撃ち方やら乱打などの操銃方に感激し、源之助を上京させ、隊士など教授方を勤めさせたいと言い出します。

 彦五郎は承諾しますが、母ノブ(土方歳三の姉)は、名主の家を継ぐ長男で、若年の源之助の病気を気遣って、猛烈に反対し同行をさせませんでした。

 このため結局、佐藤源之助は新選組に入れませんでしたが、鳥羽伏見の敗戦後、新選組が甲陽鎮撫隊と名を変えて出征した時、春日隊として鉄砲を持って従軍しています。

 新政府軍は甲府城を落とし、途中の勝沼で甲陽鎮撫隊と戦うが僅か2時間余りで破り、甲陽鎮撫隊は江戸に敗走します。新政府軍は甲州街道を東下し、甲陽鎮撫隊を追うように八王子、日野へ探索の手が入ります。甲陽鎮撫隊側に佐藤彦五郎の参加が既に割れており、一家は追われる身となるのでした。

 佐藤源之助は捕縛され、新政府軍に詮議され、春日隊を率いた父・佐藤彦五郎の隠れ先を追及されますが、頑として口を割ることはありませんでした。
 詮議の際の様子が記録として残されています。

 記録によると、詮議の最後に板垣退助が接見し、今までの申し立てに偽りないかと聞かれ真実である旨を答えます。「それでは、朝命を報じて、君国に忠義を尽くすか」と問われ、「謹んで尽忠報国」の旨を答えます。

 これを聞いて板垣は、「自分の親の居場所を知らぬとは子として不幸で、刑に処すべきである。しかし知っていても、白状しない。自分が罰せられても父を庇護(かば)うと言う所もある。そうなればまた却って考道に厚きものである。天朝の寛大になる御主意に基づき、その厚き、考道に免じて今日総てを許して遇わす。必ず親は大切にせよ」と申し渡したといいます。源之助はこの言葉に感涙に咽んだといいます。

 源之助は解放されたが、病身の身に、東征軍の厳しい糾弾を受け、心身共完全に弱り切っていた。
 刀も没収されてしまった。
 しかし、それを押し切り、向島に潜んでいる近藤、土方を訪ね、一族赦免の件を相談した。
 その際、甥が捕らえら刀も分捕られたことを知った土方歳三は、所持していた拝領の「越前康継」という葵の御紋の入った上等な刀を源之助に贈りました。

 歳三にとって源之助は姉のぶの最初の男子であり、誕生から一緒に過ごし良く面倒を見ていた、弟のような存在でした。
 鳥羽伏見の戦い、勝沼戦争と負け戦が続く中、沈殻勇武な歳三の心の片隅に拝領刀を「形見に」という気持ちもあったと思われます。その刀は、今、佐藤彦五郎資料館に展示されています。



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御用改めである
日野の新選組訪ね歩き

日野は新選組副長の土方歳三や六番隊隊長の井上源三郎の出身地であり、子孫の方々が開館する資料館や数多くの史跡が残っています。これらを訪ね歩き新選組の波乱の歴史に思いを馳せます。

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