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新選組ゆかりの人々



中村太吉

 天保9年(1838)に日野宿旅宿「あずまや」(甲州道、日野宿の東側「下宿」の旅籠)中村半兵衛の3男として生れ「太郎吉」といいました。
 幼少のおり、江戸麹町の呉服商に丁稚奉公し、後に日野宿に戻り、小料理屋を営むこととなります。

 天然理心流の近藤周介に入門し天然理心流の剣術修行し、八坂神社の奉納額には中村太吉郎藤原満道の発起人で名を連ねます。
 土方歳三や井上源三郎とも同門として親交を深め、文久3年(1863)馬場兵助、井上源三郎などと一緒に14代将軍家茂上洛警護浪士組募集に応じ、浪士組に参加し、上洛します。

 しかし、家業のある者や妻帯者は馬場兵助らと共に帰郷させられる。
 帰郷して、日野農兵隊に参加しました。慶応2年(1866)武州一揆鎮圧に参加。慶応3年には八王子壺伊勢屋における、薩摩邸浪士の取り押さえに参加した一人です。

 慶応4年(1868)近藤勇以下が再結成した甲陽鎮撫隊に帯同した春日隊として、勝沼の戦いに参加するなど歴戦に活躍した。維新まで日野宿に起きた事件に幕府の要員として第一線にあり続け、尽くしたのでした。
 甲陽鎮撫隊が東征軍に破れた後、日野農兵隊も解散する。

 維新後、江戸での奉公の間、評判の狂歌師・絵馬屋(二世)額祐に師事し、俳句、狂歌、狂句を学んでいたことから、明治10年(1877)に絵馬屋三世を継ぎ、「玉川居」と号して、料理屋を営むかたわら句会の選者や評者も務めていました。
幕府の崩壊や明治維新という激変の中、明治37年8月に亡くなるまで風流人として生きた人でした。

 墓石の両側に「月雪や花にととりし ちび筆の 思はずときのきゆる いのち毛 涼しさや西へ行く身の旅ひとり」と辞世が刻まれている。



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御用改めである
日野の新選組訪ね歩き

日野は新選組副長の土方歳三や六番隊隊長の井上源三郎の出身地であり、子孫の方々が開館する資料館や数多くの史跡が残っています。これらを訪ね歩き新選組の波乱の歴史に思いを馳せます。

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