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新選組ゆかりの地



宝泉寺

 JR「日野駅」から歩いて2分の距離で、駅のホームからもお寺の山門、本堂の屋根が見えます。
 境内掲示によれば、宝泉寺は、元徳年間(1329-1332)の開創と言われ、鎌倉建長寺五十九世曇芳周應(応永8年1401年寂)が開山しました。
 本尊は釈迦如来、脇侍に文珠菩薩、普賢菩薩があります。当初は姥久保(現新町)にありましたが、火災にあい、その後、現在の地に再建されたといわれています。
 本堂は、平成13年5月に新築落慶し、境内も整えられています。

 山門をくぐると、静かで落ち着いた空気に包まれます。
 境内掲示によれば、寺の梵鐘は延享2年(1745年)、江戸神田の西村和泉守の鋳造となっていましたが、第二次世界大戦下の鉄不足で供出されてしまいます。
 この時、梵鐘の刻銘が拓本として残されたということです。

 この宝泉寺は、井上源三郎の菩薩寺です。静かな庭園の真ん中に、井上源三郎之碑があります。さらに奥に歩いて行くと井上家の墓が十以上固まってありますが、その中に「誠願元忠居士」と刻まれた墓石があり、その裏側には(俗名 井上源三郎一武 新選組六番隊長 慶応四年一月四日鳥羽伏見の戦いの折淀千両松にて戦死)とあります。
 墓誌には、源三郎と共に兄松五郎、源三郎の死をみとった泰助の名も見られます。

 文政12年(1829)八王子千人同心をつとめた日野の井上家に生まれた井上源三郎は、18歳で天然理心流近藤周助に入門、万延元年(1860)に免許を授かりました。
 文久3年上洛して、免許皆伝の腕で新選組 六番隊長・副長助勤 をつとめました。新選組局長・近藤勇や副長・土方歳三が兄のように慕っていたということです。
 池田屋事件では土方隊の探索隊長として活躍しています。

 源三郎は、鳥羽・伏見の戦いで淀千両松にて腹部に銃弾を受け戦死することになります。退却する時、甥の泰助(当時12歳の新選組隊士)が、首を故郷に持ち帰ろうとします。
 しかし、首は重いので隊列から遅れ、仲間からも説得されて、途中にあった京の欣浄寺(ごんじょうじ)門前に埋めました。このような事情なので、井上源三郎の遺体は、宝泉寺のお墓には入っていません。
 故郷の帰る場所として、一族のお墓と同じ墓所にあります。
 ここには、井上泰助のお墓もあります。多くのファンや観光客が墓前に手を合わせに訪れています。

 なお、こちらのお寺は、およそ36cmとなる馬頭観音の石像「持ち上げ観音」が有名で、持ち上げた時の重さの感じ方によって吉凶を占うといわれています。
 縁起によると「天明8年(1778)8月21日のこと、石仏を背負った旅の僧が宝泉寺に一泊し、この石仏は持ち上げる重さによって、いろいろな願いを占ってくれると言って、お寺に置いて、翌朝消えてしましました。そこで、僧が言う通りにいろいろなことを占ってみると、まさにその通りでした。」とのこと。
 石像は、本堂と客殿をつなぐ廊下に安置されており、今でも伺いをたてることができます。
 日野まで観光に訪れた際は、ぜひこの石像を持ち上げてみてはいかがでしょうか。


新選組ゆかりの地情報
名称 如意山 宝泉寺
住所 東京都日野市日野本町3-6-9
アクセス JR「日野駅」から歩いて2分
営業時間
料金


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御用改めである
日野の新選組訪ね歩き

日野は新選組副長の土方歳三や六番隊隊長の井上源三郎の出身地であり、子孫の方々が開館する資料館や数多くの史跡が残っています。これらを訪ね歩き新選組の波乱の歴史に思いを馳せます。

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