甲州街道訪ね歩き

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鬼の意義


 日本の民俗芸能には多くの「鬼」が登場します。その多くは人に害をなす邪悪な存在で、最終的には倒されてしまいます。
 しかし、民俗芸能の世界には、単なる悪者ではないさまざまな鬼も存在しています。
 例えば、愛知県奥三河の「花祭」には、巨大な鬼面をつけ、大きなまさかりを手に持つ鬼たちが登場します。舞いに登場する鬼たちは、敬意を込めて「鬼様」と呼ばれ、鬼は悪者ではないとされています。神の遣いとも、この地に祭りを伝えた修験者とも言われています。

 鬼というテーマは、能の演目においても重要な役割を果たしています。『井筒』と『隅田川』は、ともに鬼の姿をした女性が主人公となる夢幻能の傑作です。それぞれの物語を簡単に紹介しましょう。

 『井筒』は、在原業平と紀有常の娘との恋物語を題材としています。
 幼い頃に井筒で背比べをした二人は、成人して歌を詠み交わして結ばれました。
 しかし業平は河内の国の高安の女のところへ通い始めてしまいました。
 有常の娘は、業平の身を心配する歌を詠み、それを知った業平は高安の女の元へは行かなくなりました。やがて業平は死去し、有常の娘も井筒の陰に隠れて暮らすようになりました。ある秋の夜、旅の僧が在原寺に立ち寄り、業平とその妻の冥福を祈ります。
 そこへ里の女が現れ、業平と有常の娘の物語を語り、自分がその娘であると告げて姿を消します。
 僧が不思議に思っていると、里人が現れて二人の話を語り、井筒の女の化身を弔うよう勧めます。僧が仮寝をすると、夢の中に井筒の女の霊が現れます。霊は業平の形見の冠と直衣を身につけて舞い、井筒の水に自らの姿を映し、そこに業平の面影を見るのでした。

 『隅田川』は、梅若丸という稚児とその母親の悲劇を描いています。
 梅若丸は、京都で人買いにさらわれてしまいました。母親は、息子を探して武蔵国の隅田川まで流浪しました。そこで渡し守に出会い、息子の死を知らされます。母親は、渡し守から息子の形見の衣と笛を受け取り、悲しみに暮れます。
 夜になると、梅若丸の霊が現れて母親に寄り添います。母親は、息子の霊に抱きつき、一緒に歌を歌い、笛を吹きます。しかし夜が明けると、霊は消えてしまい、母親は狂気に陥るのでした。

これらの演目は、鬼という形で現れた女性の愛情と悲しみを、美しくも切なく表現しています。能の芸術性を感じることができるでしょう。

 ところで、鬼の面や衣装は、日本の伝統的な芸能や祭りで大きな役割を果たします。

 能楽や狂言などの演劇では、鬼の面が使われ、登場人物の感情や性格を表現するのに欠かせない道具となっています。
 また、鬼の面をかぶって舞踏する鬼祭りなども各地で行われ、これらのイベントは日本の伝統文化を受け継ぎ、祝祭に彩りを添えています。

 まず、能楽や狂言などの演劇において、鬼の面は登場人物の感情や性格を表すための重要な道具です。
 能楽では、「能面」と呼ばれる鬼の面が使われ、木ででき、白・赤・青・黒などの色で彩られます。
 これらの面は鬼の種類や役柄によって異なる表情を持ち、光の当たり方や俳優の動きによって、喜怒哀楽を表現します。憤怒面や獅子面などがその例です。狂言では、鬼の面は「狂言面」と呼ばれ、能面よりも大きく、陶器や紙で作られます。
 狂言面も様々な形や表情を持ち、酒呑童子や鬼女などのキャラクターが描かれます。これらの鬼の面は、日本の美意識や芸術性を反映しており、高い評価を得ています。

 次に、鬼の面をかぶって舞踏する鬼祭りは、日本各地で伝統的に行われています。
 これらの祭りは、鬼を祓ったり鎮めたりするために行われ、日本の伝統文化を守り、祝祭に華を添えています。鬼は時には恐怖や苦悩を象徴する存在とされますが、同時に農業や豊作の守護神としても信仰されています。

 鬼の面や衣装は、日本の文化において、二面性を持つ存在として描かれています。悪しき鬼としての一面と、農業や豊作を守る神としてのもう一面。鬼は日本の伝承において、人間の心の内と外の世界を反映する存在と言えるでしょう。
 

 鬼の絵画や彫刻は、日本の文化や美術に大きな影響を与えました。鬼の美的な要素は絵画や彫刻に取り入れられ、鬼の伝説は物語や演劇にも広く取り入れられました。

 鬼のイメージは、頭に二本の角を生やし、大きな口から鋭い牙が生えている怖い印象があります。これは、鬼が邪悪な力や欲望を象徴する存在として描かれることが多いためです。

 また、絵巻物の類に目を転じると「地獄草子」は平安時代の絵巻物で、地獄にいる下っ端の鬼である獄卒が描かれています。獄卒は地獄に落ちた罪人たちに直接手を下す仕事をしています。

 また、「百鬼夜行絵巻」は室町時代の絵巻物で、妖怪たちが行列をする「百鬼夜行」のさまを描いたとされる複数の絵巻物の総称です。多数の作品が現存しており、代表的な作品は京都大徳寺山内の塔頭・真珠庵に所蔵される『百鬼夜行図』です。その中には、人間の使う道具が変化した鬼が現れました。これらは、付喪神と呼ばれる鬼で、打ち捨てられた古道具に魂が宿ったものでした。付喪神は、物を粗末にすると化けて出るという教訓を伝える存在でした。

 また、葛飾北斎の「北斎漫画」にも鬼が描かれています。
 「北斎漫画」とは、葛飾北斎が1814年から1878年にかけて刊行した絵本のシリーズで、人物や動物、植物、建物、風景など、ありとあらゆる題材が描かれています。
 「北斎漫画」には、鬼に関する絵も多く描かれています。鬼は、日本の古代から伝わる民間信仰や神話において、人間に危害を加えたり、人を食べたりする悪霊や妖怪のことですが、一方で人間に助けを与えたり、幸せをもたらしたりする善霊や神のこともあります。「北斎漫画」も含めて北斎は、こういった鬼の様々な側面を表現しています。

 例えば、鬼が僧衣をまとって念仏を唱えている「念仏鬼図」があります。これは、大津絵という民間信仰の絵画の一つで、鬼の住まいは人間の心の内にあるということで、描かれた鬼の角は、仏の教えである三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)いわゆる人々の我見、我執であると言えます。
 人は自分の都合で考え、自分の目でものを見、自分にとって欲しいもの、利用できるもの、自分により良いものと、限りなく角を生やします。
 大津絵の鬼は、それを折ることを教え、鬼からの救いを示唆しているとも言われています。

 また、鬼が人間の姿に化けて人間と交流する「鬼の化け物図」があります。これは、鬼が人間の生活に溶け込んだり、人間の心の中に潜んだりする存在として表現されています。鬼は、人間の欲望や矛盾を風刺するとともに、人間の感情に訴えるキャラクターとして描かれています。

 さらに、鬼が人間の敵対者や恋敵として登場する「鬼退治図」があります。これは、浄瑠璃や歌舞伎で人気を博した鬼退治の物語や鬼と人間の恋愛物語を題材にしたものです。鬼は、人間の敵として戦う場面や、人間の恋人として悲しむ場面など、様々な表情を見せています。

 北斎の作品は海外の近代美術にも大きな影響を与えました。これらの作品は、それぞれの時代や作者の視点を反映しており、鬼や妖怪の描写には多様性があります。それぞれの作品が持つ独自の魅力を理解することで、日本の伝統芸術の豊かさを感じることができます。

 これらの事例から、鬼の絵画や彫刻は、人々の信仰や恐怖、尊敬の念を表現する手段として用いられ、その結果、鬼は日本の芸術や文化の一翼を担う存在として定着していきました。

  鬼瓦(おにがわら)は、日本の伝統的な建築物や神社仏閣で見られる屋根瓦の一種であり、鬼の形状が彫り込まれた特徴的なデザインを持っています。
 鬼瓦は、棟の末端に付ける雨仕舞いの役割を備えた瓦で、一般的に鬼瓦といえば、鬼面の有無にかかわらず棟瓦の端部に付けられた役瓦のことを指します。

 これらの鬼瓦は、日本の文化や信仰、建築の歴史において重要な役割を果たしています。
 鬼瓦の起源は奈良時代にまで遡ります。当初は、宮廷や寺院の屋根の飾りとして用いられ、その後、鬼の形状が彫り込まれた瓦が一般の建築にも広まりました。
 鬼は仏教や神道の信仰において、邪悪な力を払拭し、災厄を避ける守護神として崇拝されていました。そのため、建物の屋根に鬼の形状を施すことは、邪気を祓い、悪い影響を遠ざけるための一種の護符とされました。

 鬼瓦の目的としては、鬼の守護力に関係します。鬼は日本の伝統的な信仰で邪悪な存在を払う守護神とされています。鬼瓦は建物や寺社を魔除けとして守るためのものとして位置づけられ、その形状や表情から強力な守護の象徴と見なされています。

 また、鬼は災厄や不幸を避けるための象徴でもあります。建物の屋根に鬼瓦を配置することで、その建物やその周囲の住人を厄災から守ると信じられています。特に火災を防ぐ役割も期待されており、鬼の力が邪気や炎を跳ね返ると考えられています。

 そして、鬼瓦は建築物における芸術的な装飾としても評価されています。職人の技術と美意識が凝縮された鬼の彫刻は、建築物の一部として美しい景観を構築する役割を果たしています。
 これらの事例から、鬼や鬼瓦は、人々の信仰や恐怖、尊敬の念を表現する手段として用いられ、その結果、鬼は日本の芸術や文化の一翼を担う存在として定着していきました。