各地の民話・伝説に見る鬼
聖徳太子の異母弟の大江山鬼退治(京都府)
大江山の鬼退治と言えば、多くの方が源頼光と四天王の活躍を思い浮かべることでしょう。しかし、実はその遙か昔、飛鳥時代にも大江山の鬼を退治したとされる、もう一つの伝説が存在するのをご存知でしょうか? しかも、その主人公は、あの聖徳太子、すなわち厩戸皇子の異母弟にあたる当麻皇子(たぎまのおうじ)であるという伝承です。
まず、当麻皇子について簡単にご説明いたします。
当麻皇子は、第31代用明天皇の皇子であり、聖徳太子(厩戸皇子)とは同じ父を持つ異母兄弟にあたります。
彼の生没年は不詳ですが、飛鳥時代に活躍した皇族の一人です。歴史書にはあまり多くの記述が見られないため、その生涯には謎が多い人物でもあります。しかし、そうした中で、彼が大江山の鬼退治に関わったという伝承が残されていることは、非常に興味深いと言えるでしょう。
この伝説の舞台となるのは、皆様ご存知の丹波国の大江山です。平安時代には、酒呑童子(しゅてんどうじ)をはじめとする鬼たちが跋扈(ばっこ)した場所として知られ、京の都を脅かす存在でした。しかし、当麻皇子が登場する時代の大江山もまた、人々に恐れられる存在であったことが伺えます。この伝説は、大江山が古くから鬼伝説と深く結びついていたことを示唆しているのです。
では、いかにして当麻皇子が大江山の鬼を退治したのでしょうか。
この伝承は、主に『日本書紀』の裏側や地方に伝わる口承、そして後世に編纂されたいくつかの歴史書や物語の中に断片的に記されています。それらを総合すると、以下のような物語が浮かび上がってきます。
当時、大江山には複数の悪鬼たちが住み着き、都の人々を襲い、財物を奪い、時には子供たちを拐かすなど、その悪行は枚挙にいとまがありませんでした。朝廷は手をこまねいていましたが、なかなか討伐に成功する者がいませんでした。
そのような状況の中、当麻皇子は人知れず鬼退治を決意します。彼は武勇に優れた皇子であったとされ、また呪術的な知識や力も持ち合わせていたと言われています。単身、あるいはごく少数の従者を引き連れて大江山へと分け入ったとされます。
伝説によれば、当麻皇子は、単に武力に頼るだけでなく、智謀と策略を駆使して鬼を討伐しました。
具体的には、変装して鬼の住処に近づき、その生態や弱点、そして大将である鬼の親分の情報を探ったとされています。
また、鬼との戦いに臨むにあたり、当麻皇子は山中の祠や寺社で熱心に祈祷を行い、神仏の加護を求めました。これにより、彼の武勇はさらに増し、また鬼の力を弱める呪詛をかけたとも言われています。
そして鬼たちが油断している隙をついて奇襲をかけたり、あるいは巧妙な罠を仕掛けて鬼を捕らえたりしたとされます。特に、鬼たちが酒に酔って無防備になったところを襲ったという記述もあり、これは後の酒呑童子伝説にも通じる要素として興味深い点です。
最終的に、当麻皇子は鬼の頭領を討ち取り、残りの鬼たちも退散させることに成功しました。これにより、大江山周辺の治安は回復し、人々は平和な暮らしを取り戻したと伝えられています。
なお、伝説によると、当麻皇子が退治したのは、英胡(えいこ)、軽足(かるあし)、土熊(つちぐま)と呼ばれる三匹の鬼です。
これらの鬼は、それぞれ以下のような性格や特徴を持っていたとされています。
英胡(えいこ)の正体については諸説あります。猿猴や猩々といった想像上の生物、あるいは疱瘡などの疫病に例えられることもありますが、中国で「胡」が異民族を指すことから、新羅など海外の異民族を意味していたと考える説もあります。
軽足(かるあし)は、その名の通り、足が速く、軽やかに動き回る鬼であったと推測されます。
土熊(つちぐま)は、土車(つちぐるま)とも表記され、その発音から「土蜘蛛(つちぐも)」を意味していると考えられています。土蜘蛛とは、大和朝廷に恭順しなかった地方の豪族を指すことが多く、彼らが大和朝廷にとっての「鬼」として描かれた可能性も指摘されています。
このように、当麻皇子が退治した鬼たちは、後の源頼光による酒呑童子伝説の鬼たちとは異なる、具体的な名前と特徴を持っていたことがわかります。そして、これらの鬼たちは単なる妖怪的な存在ではなく、当時の社会情勢や支配体制に抵抗する勢力を象徴していた可能性も、研究者の間で指摘されています。
それにしてもなぜ当麻皇子の伝説は語り継がれてこなかったのでしょうか。
さて、これほどまでに劇的な功績でありながら、なぜ当麻皇子による大江山鬼退治の伝説は、源頼光のそれほど有名ではないのでしょうか?
考えられる理由としては、いくつか挙げられます。
先ほども触れましたが、当麻皇子自身の歴史的な記述が少ないため、彼の功績が後世に伝わりにくかった可能性があります。
また、飛鳥時代は権力闘争が激しい時代でした。当麻皇子の功績が、特定の政治勢力にとって不都合であったため、意図的に記録されなかった、あるいは軽んじられた可能性も否定できません。
口承で伝えられる物語は、時代とともに変化し、時には他の物語と融合することもあります。当麻皇子の伝説が、後の時代に登場する源頼光の物語に吸収されたり、あるいはその一部として組み込まれていった可能性も考えられます。実際、酒呑童子伝説の中には、鬼が酒を好む描写など、当麻皇子の伝説と共通する要素が見られます。
また、平安時代に入ると、武士が台頭し、彼らの武勇伝が世間の注目を集めるようになります。源頼光と四天王による酒呑童子退治は、まさにそのような時代背景の中で語り継がれ、武士の勇気を象徴する物語として広く浸透していきました。
しかし、たとえ広く知られていなくとも、この当麻皇子の伝説は、大江山が古くから鬼の棲み処として認識され、そしてそれを退治する英雄が常に求められていたという人々の思いを反映していると言えるでしょう。
それから、聖徳太子と当麻皇子の関係について触れておきましょう。
聖徳太子は、日本の律令国家形成に大きな影響を与え、仏教の興隆にも尽力した偉大な人物です。
一方の当麻皇子は、歴史の表舞台にはあまり登場しませんが、彼が大江山の鬼を退治したという伝説は、聖徳太子の陰に隠れた皇族の意外な活躍を物語っています。
血を分けた兄弟でありながら、それぞれの立場で異なる形で世に貢献した二人の皇子。聖徳太子が思想と政治で国を導いた一方で、当麻皇子が実際に人々の脅威を取り除いたというこの伝説は、当時の皇族が単なる政治的な存在だけでなく、武勇や精神的な力も持ち合わせていたことを示唆する貴重な物語と言えるでしょう。
この物語は、単なる伝承としてだけでなく、古代の人々が大江山という場所に対して抱いていた畏怖の念や、それを乗り越えようとする人々の願い、そして皇族という存在に寄せられていた期待を私たちに教えてくれます。
また、この伝説は、日本の歴史の奥深さ、そしてまだ解明されていない多くの謎が存在することを示しています。