鬼の類型

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鬼の類型


 鬼は、人間に害をなしたり、恐怖を与えたりする存在として描かれることが多いですが、時には人間と仲良くなったり、人間の心を映したりする存在として描かれることもあります。

 鬼に関わることわざは、鬼の性質や特徴を用いて、人間の心理や行動、社会の風俗や習慣などを表現したものです。

 鬼に関わることわざは、日本の文化や歴史に深く関係したもので、鬼のイメージや役割にも変化が見られます。
鬼に関わることわざを知ることで、日本の思想や価値観にも触れることができます。
 鬼に関わることわざは、日本語の表現力や豊かさを感じることができるものです。
 鬼に関わることわざには、以下のようなものがあります。

 「鬼に金棒」とは、もともと強い者がさらに強いものを手に入れることで、無敵になるという意味のことわざです。鬼は素手でも十分に強いのですが、鉄の棒(金棒)を持つと、その威力は倍増します。金棒は鬼の武器としてよく描かれており、桃太郎の話などにも登場します。
 このことわざは、強い者が良い武器や条件などを得ることで、さらに強くなるという状況を表します。例えば、優秀な選手が強豪チームに加入することや、有能な人材が優良企業に就職することなどが、「鬼に金棒」の例と言えます。このことわざは、相手の強さを認めるときや、自分の強さを誇るときに使われます。

 「鬼が出るか蛇が出るか」とは、将来は予測不能で不気味なことのたとえです。どんな恐ろしいことが起こるかわからないということを、「鬼が出るのか蛇が出るのかわからない」という状態にたとえた慣用句です。
 このことわざの語源は、からくり人形を操る「傀儡師(からかいし)」の言葉です。傀儡師が箱から人形を出すときに、見ている人の興味を引くために「さて、鬼が出るのか蛇が出るのか、どちらでしょう」と言ったことが語源といわれています。
 鬼は日本の神話や伝説において、しばしば悪しきものや障害を象徴する存在として描かれます。一方、蛇は再生や変化のシンボルとして、また神聖なものとして崇められることもありました。蛇は皮を脱ぎ捨てて新しい姿になることや、長寿の象徴とされることがありました。蛇は神や仏の化身として登場することもあり、人間に恩恵を与えることもありました。
 このように、鬼と蛇は似ているようで異なる性質を持ち、それがこのことわざの中で表現されています。鬼は凶で蛇は吉という対比があるとも言われています。
現代では、このことわざはビジネスの場面や日常生活の中で、予測が難しい事態や不確実性を伴う状況を示す際に用いられることが多いです。特に新しい取り組みや挑戦の際、結果がどうなるかわからないという意味合いで使われることが多いです。

 「鬼の居ぬ間に洗濯」とは、こわい人やうるさい人がいない間に、くつろいで息抜きをすることのたとえです。一方、洗濯するものは衣服ではなく「いのちやこころ」です。洗濯された衣類は気持ちが良いものですが、「いのちやこころ」も同じことで、「洗濯」とは「気晴らし」というような意味です。主人や監督する者など、こわい人やうるさい人がいない間に、日頃の苦労や束縛から解放され、のんびりくつろいで気晴らしをすることをいうのです。

 「明日の事を言えば鬼が笑う」とは、未来のことなど予測できるわけがないのだから、あれこれ言っても仕方がないということのたとえです。ここでの「笑う」は、相手を馬鹿にするようなあざ笑いのことです。例えば、あまりにも現実離れしている話や、未来のこと、過去のことをのんきに話す人に対して言います。未来のことは、いくら考えてみても誰にも分からないし、いくら過去のことを考えたとしても、過去の出来事を変えることはできないからです。
 笑うのが鬼なのは、鬼は本来笑わない存在だからです。鬼が笑うというのは、鬼でさえおかしくてせせら笑うということです。現実性がないことや予測ができないことを言う人に対して、鬼が笑うということわざが使われます。
 このことわざは、「〇〇のことを言えば鬼が笑う」という表現の仕方をします。例えば、「明日のことを言えば鬼が笑う」「来年のことを言えば鬼が笑う」「3年先のことを言えば鬼が笑う」「昔のことを言えば鬼が笑う」などのように使います。

 「鬼の首を取ったよう」とは、さほどでもないことを、まるで鬼を退治して首を取るという大手柄を立てたかのように得意になったり、大喜びしているさまを表すことわざです。
 この言葉の由来は、日本の戦で、討ち取った敵の首を持ち帰り、手柄として認められたことからきています。鬼は、人に危害を加える空想上の怪物で、鬼を退治して首を討ち取ることは、英雄的な行為であると考えられていました。
しかし、このことわざは、自分の手柄を実際以上に大きいものと思ってむやみに喜ぶ様を批判する場面で使われることが多いです。例えば、「彼は予選に通っただけで、鬼の首を取ったように喜んでいる」などのように使います。

 「鬼の目にも涙」とは、いつもは冷酷で無慈悲な人でも、感動したり同情したりで涙を流すことがあるという意味のことわざです。
 このことわざの由来は、江戸時代に、圧政を敷いていた代官が、ある事件で被害者の家族の涙に心を打たれて、自分の罪を悔いて涙を流したという話からきています。鬼は、人に危害を加える空想上の怪物で、鬼が涙を流すことは、非常に珍しいことであると考えられていました。
 このことわざは、普段は厳しい人が、突然優しくなったり、同情をしてくれたりした場合に使われることが多いです鬼のように無慈悲な者でも、時には情け深い心を起こし、目に涙をうかべることがあるというたとえです。

 「鬼の霍乱」とは、普段はとても丈夫な人が、珍しく病気になることのたとえです。
この言葉の由来は、「霍乱」という病気の特徴を表現しています。
 「霍乱」は、漢方医学用語で日射病や暑気あたりのことで、非常に健康な人が珍しく病気になることを意味します。 病気などしたことない人を、強くて丈夫な鬼にたとえ、鬼が霍乱で患うようだという意味からきています。
 この言葉は、ふだん丈夫な人が珍しく病気になった時に使われることが多いです。 例えば、「彼はいつも元気だけど、今日は鬼の霍乱で寝込んでいる」や、「彼女は鬼の霍乱でインフルエンザにかかった」などのように使います。