仁科盛信と松姫

松姫を慕う人々


仁科盛信と松姫

 仁科盛信は、松姫の兄にあたる武田二十四将の一人。武田信玄の五男。
 母は、武田氏族の油川信守の女で、信玄の側室・油川夫人といわれている。武田信玄
 異母兄は、武田義信、武田勝頼です。

 幼少の頃は不明だが、『甲陽軍鑑』によれば、仁科盛信が5歳のときである永禄四年(1561)上杉景勝に寝返った信濃国安曇郡の名族で、仁科城主・仁科盛政を攻めて自害に追い込むこととなる。信玄はその跡を五郎に継がせたという。

 これは信玄の得意とする方法で、諏訪氏、海野氏にも実子に名跡を継がせています。

 しかしこの謀反というのも、仁科盛政が川中島の戦い関係で城を留守にしていた時に、家臣が上杉家の調略に乗ってしまったということらしく、盛政自身の意思とは異なるという歴史学者もいるようです。

 いずれにせよ親族100騎持の仁科家当主として、諸役免許や知行安堵などの発給武田勝頼も行っており、森城主として越後との国境警備を指揮した。

 盛信は父・信玄にもよく仕え、信玄亡き後は、武田家の家督をついだ腹違いの兄、勝頼にも大変よく仕えました。

 そして勝頼の時代となると、いよいよ織田信長・徳川家康の侵攻が予想されたため、1581年、勝頼の命にて高遠城主となり、副将・小山田昌行と共に織田勢の来襲に備えるのでした。この高遠城という城は、信玄の時代ですと攻めの城として重要視されていました。

 そのころ織田信忠と婚約していた松姫は、周りに目も厳しく、府中(甲府)の武田勝頼の元にいられず兄・仁科盛信が松姫を保護していたようだ。

 織田・徳川軍との長篠の戦い後は、武田から織田勢へ寝返る者や、逃亡する武将も相次ぎ、次第に武田家は衰退していく。
 そんな状況においても盛信の武田家への忠誠は、揺らぐことは決してなかった。
仁科盛信
 1582年、織田信忠を筆頭に池田恒興、森長可、河尻秀隆ら5万の大軍が伊那に攻め込む。

 仁科盛信は従者ら十数名を松姫(22歳)の護衛につけ、仁科盛信の4歳になる督姫と共に甲府へ避難の為向かわせた。

 松尾城主・小笠原信嶺や木曾義昌らが早々に織田勢に寝返り、寝返った木曾義昌を討ちに来た15000の武田勝頼勢も2月16日、鳥居峠で諏訪頼豊が討死するなど敗退し、諏訪まで撤退した。

 織田勢が信濃・飯田城に迫ると2月18日には飯田城主・保科正直が高遠城へと逃亡しており、大島城主・武田信廉らは戦意を喪失し甲斐へ撤退した。

 一方、駿河では徳川家康が浜松城を出発して2月18日に掛川城に入り、2月20日には依田信蕃の田中城を包囲。2月21日には駿府城にまで進出している。

 2月28日、諏訪の武田勝頼は更に新府城へ退却したが、武田の将兵は次々に逃亡し離脱が相次いだ。
松姫
 まだ美濃にいた織田信長は河尻秀隆に盛信が守る高遠城攻撃を命じ、3月1日に高遠城を包囲した。

 織田軍の総大将である織田信忠は降伏を促す書状を送ったが、ここには、「「武田勝頼は不義なので退治する。木曾、小笠原らも降伏した。上飯田、大島まで自落したのに、城を堅く守っているのは神妙なことである。しかし、勝頼は昨日、諏訪を退き退いている。早速、出仕し忠節を誓うのであれば所領は望みのとおりにするし、黄金百枚を差し上げる。」と書かれていたという。

 これに対して盛信は断る書状をしたためた。いわく「信玄以来、信長に対しては遺恨を重ね持っている。ようやく残雪も無くなったので、勝頼は尾張・美濃へ織田討伐として動き、鬱憤を晴らそうかと思っていた。ところがそちらが発向していたので籠城しているまでである。一端一命を勝頼に武恩として報いるものであり、不当不義の臆病な輩と同じにしないでもらいたい。早々に馬を寄せて攻められよ。信玄の頃から鍛錬してきた武勇・手柄をお見せしよう。」
高遠城
、そして、使者として遣わした僧侶の耳を削ぎ落とし、突き返したといいます。

 織田軍五万に対して、高遠城を守るのは兵はわずかに3000足らずで、その勝敗は誰が見ても歴然としたものでした。

 明智光秀の軍勢も加わり、1582年3月2日、織田勢は高遠城への総攻撃を開始。

 織田軍の攻撃が始まると、既に新府城に撤退した武田勝頼の援軍も得られず、また、降伏し寝返った武将の手引きで援軍の得られないなか仁科盛信は3000の兵を持って、小山田昌成・小山田大学助・飯島民部少輔らとともに籠城し、織田勢と決死の覚悟で戦いに挑み奮闘します。

 しかし、多勢に無勢、兵力の差はどうにもならず、織田勢は水沢隆広が高遠城西門を突破。滝川一益は東門、明智光秀勢の斉藤利三が北門、織田信忠勢の河尻秀隆(川尻秀隆)が南門を攻めます。
 斉藤利三勢が本丸に迫ると、織田勢の織田信家を討ち取るなど奮戦をしたが、城門が突破されてしまう。

 仁科盛信ついに高遠城は落城しました。

 盛信は、最後、自らの腹を十文字に斬り、はらわたを掻き出し投げ捨てて果てたとも伝わっています。壮絶な最期で、享年二十六歳の生涯を終えました。

 武田家家臣の中で寝返りや逃亡をせず、徹底抗戦したのは盛信だけでした。

 3月6日に揖斐川まで到達し織田信長は、そこに届いた仁科盛信の首実験を行い、長良川の河原に晒した。

 武田家臣の多くが逃亡した中で、寝返りも逃亡もせず、徹底抗戦を貫いたのは仁科盛信だけでした。
 織田軍が引き上げると、首のない遺体は勝間村の農民が屍を探し出し、村の若宮原で火葬し、村の西の山に埋めた。以来この山は”五郎山”と呼ばれるようになったという。
 今、高遠城を見下ろす五郎山に五郎を祀る祠が静かにある。