松姫ゆかりの地を訪ね歩く

松姫ゆかりの地を訪ねて

信松院

金竜山信松院と松姫

 東京都八王子市台町に、曹洞宗の金竜山信松院がある。この寺は、甲斐(今の山梨県)武田家の旧臣で、そののち、徳川家康の家臣となった、大久保十兵衛長安の尽力によって建てられた尼寺だが、ここに眠るのが武田信玄の娘松姫である。

 さて、墓を囲む玉垣は、没後132年目に千人頭・千人同心らが寄進したもの。武田菱のついた門のそばには、旧武田家臣の多く住む八王子へ落ちた時の松姫の姿がありました。
 また一緒に甲斐から逃れてきた松姫の兄・仁科盛信の娘・小督(出家して玉田院)の墓は大横町の極楽寺にある。



つつじがさき

躑躅ヶ崎館と松姫

 松姫の誕生を喜んだ信玄はつつじが崎の屋敷の中に小さいながらすばらしい館を造らせた。

 館が出来ると油川ご寮人と松姫が住むようになったので「新館の姫」と呼ばれるようになった。松姫は小さい時から聡明でやさしく、しっかりしていたので「新館姫」として皆から大変かわいがられた。

 7歳の時に11歳の織田信忠と婚約するが、元亀四年(七月天正と改正)に親愛されていた父信玄が病没した。
 大切に愛育してくれた油川ご寮人は信玄に先立って病死しているので、十三歳になった松姫は孤独の身となってしまった。
 織田家の武田領侵攻が現実味を帯びてくるなか、織田信忠と婚約していた松姫は、躑躅ヶ崎館に居ずらくなるのだった。

高遠城

高遠城と松姫

 「高遠城」は長野県伊那市に有る高遠頼継(たかとおよりつぐ)の平山城で「兜山城」とも呼ばれています。 1545年頃、この辺りを治めていた高遠氏を武田信玄が攻略し、改築したと言われています。
 さて、21歳の松姫は、躑躅ヶ崎館から兄の庇護を受けながら高遠城下の屋敷で暮らしていましたが、そんなのも束の間、織田信忠が高遠城に迫ったため、仁科盛信の娘・督姫(4歳)を連れて、新府城へ逃れます。
 高貴の姫ながら真冬に幼い姫たちを連れた逃避行は難渋を極めたでしょう。

 高遠城は今、城址公園となり、園内には二千七百本もの桜が植えられ、桜の名所として全国に知られている。 
 桜は『コヒガンザクラ』と言って花弁が小ぶりで、少し紅いという。
 この地で壮絶な死を遂げた人々の流した血が花に乗り移った、と言う言い伝えがある。


新府城

新府城と松姫

 新府城は、天正9年(1581年)武田勝頼が、家臣の真田昌幸に命じて築城したとされる。
 天正3年(1575年)長篠の戦いで武田勝頼軍が織田・徳川連合軍に敗北した後、武田領地である駿河、信濃、甲斐、上野には、織田・徳川連合軍と北条軍が侵入した。
 勝頼は、領国支配の強化と、織田軍の甲斐への侵入を防ぐために、新府城を築城したのである。

 天正9年12月、武田一族はつつじが崎の館から新築された韮崎の新府城に移った。運命の天正10年正月には新府城において武田家一族の新年会と新築祝いが催された。
 この新年祝いの会に参列した高遠城主で松姫の実兄仁科五郎盛信は、21歳の見目うるわしくなった姫を高遠城に連れていき結婚をすすめたが松姫はこばむばかりであったという。
 新府城にも危険が及ぶ可能性が高い事から、松姫は、更に武田勝頼の娘・貞姫(4歳)、武田一族小山田信茂の香貴姫(4歳)や仁科盛信の嫡男・仁科信基らを連れて、更に東へと逃れます。


海島寺

海島寺と松姫

 海島寺は永徳2年(1380)武田家支族・栗原武続が開桃寺と称して創建。永徳二年(1380年)栗原城主栗原武続(大翁寺)が先祖の菩提の祈願所として建立されました。

 後に武田信虎の伯母宝山玉長老が尼寺として再興、二世は武田信玄の伯母天徳祖瑞長老が継ぎその後も武田家の有縁の姫君が尼僧となり十一代続いています。

 さて、新付城から逃避行を続ける松姫一行はとりあえず武田家重臣の姫が尼僧として住んでいる海島寺があるので、そこに身を寄せてしばらくの宿としたという。
 そのころ風聞として兄仁科盛信が三月二日城を守って壮絶な討死をしたことが伝わってきた。
 

向獄寺

向嶽寺と松姫

 臨済宗には向嶽寺派という宗派があり、ここがその本山です。富嶽(富士山)へ向かう寺という意味をもつ寺の佇まいは仏都を思わせるような風情があり、国宝「絹本著色達磨図」(国立博物館蔵)など多くの文化財を所蔵しています。

 逃避行を続ける松姫一行は取り急ぎ向嶽寺に赴くと向嶽寺の住職は快く受けいれ八王子の金照庵がよい所だからと、保護依頼状をしたためた上、一夜の宿を提供してくれた。
 その夜、向嶽寺の住職は武蔵の国までの道筋をくわしく教え励ました。
 幸い供の中に西原・檜原方面にくわしい者がいたので大変心強くなり、翌朝厚く礼を述べると大菩薩方面に向かって険しい山道を辿って行ったと伝えられる。
 その間に、武田勝頼は天目山で自刃し、その後の成り行きを見守っていましたが、やがて織田家による残党狩りが厳しいものとなっていくのでした。


雲峰寺

雲峰寺と松姫

 逃避行を続ける松姫一行でしたが、幸い、初鹿野・勝沼・石和方面とは方向違いの山中へ向かっているので敵兵の姿もなく、油断怠らないうちにも安堵する思いで裂石に到着した。

 ここには武蔵からの侵入を食い止める拠点でもあり、武田信玄庇護の雲峰寺がある。今から山に登るには途中で日が暮れるし、幼子を抱えて疲れている一行は一夜の宿を頼んだという。

 快く受け入れた雲峰寺に入った松姫一行は、雲峰寺の武者隠し部屋の中に武田家ゆかりの大切な品々が仕舞ってあることに驚いたのではないか。
 実は勝頼一行が田野において討死する折、自刃を決意した勝頼は主人と生死を共にしたいと願う家臣に武田家重代の宝である品々を、雲峰寺に隠し、敵の手に渡さないように頼んでおいたという。

松姫峠

松姫峠と松姫

 松姫峠は村と大月市を結ぶ国道139号にあります。名称は、武田家滅亡時に信玄の娘松姫が八王子までの逃避行ルートとして通過したという伝説に由来しています。
 松姫は韮崎にある新府城を出発し、塩山を通り、武州(八王子)を向かいます。

 この松姫峠、小菅村と大月市の境にあり、遠くは富士山も望める高地でもあり、もしここを通ったとしたら、幼い姫君たちを連れての旅の険しさ、厳しさを思わずには居られません。

心源寺

心源院と松姫

 心源院は延喜年間(901~923年)智定律師が律宗の寺として創建した一字を醍醐天皇が官寺にして心源鎮静護国院と改めた。
 後武蔵国守護代大石遠江守源定久を開基とし高尾山石雲院より開山として李雲永岳禅師を請して曹洞宗に改宗、現在に至っています。

 松姫は心源院に移り、当山六世随翁舜悦禅師より剃髪を受け武田家菩提安泰のため仏弟子となり信松尼と法名を賜った。
 父信玄をはじめとする武田一族と婚約者であった織田信忠の冥福を祈る日々を送ります。

 現本堂は戦災にて焼失したものを昭和四十七年に再建した。

松姫

檜原村と松姫

 「松姫」は甲州から 必死 の思いで逃亡し、八王子の金照庵にたどり着きましたが、その逃走経路 は確かでなく、檜原村には 古くから「檜原を逃走経路に使ったのではないか。」 との言い伝えが残って おり ます 。
 その 証拠 となるものが、藤原地区の民家 に大切 に保管 されていた「松姫の手鏡」で、松姫が逃走中にこの 民家 に立ち寄り、ひと時の休息をお願いし 、その 謝礼 として 置いていった物と言われています 。
 この 「松姫 の手鏡 」を所有者の振屋喜久治氏から 檜原村教育委員会がお借りし、檜原村郷土資料館で展示 しているそうです。

金照庵

金照寺と松姫

 金照寺はまた、武田家にゆかりのある向嶽庵の第三世俊翁令山和尚が至徳三年(1384)に開山したものであり、金照寺と向嶽寺は門徒兄弟の間柄なので、松姫は金照寺を目指したのである。

 天正10年、織田・徳川連合軍が伊奈口から攻めたて、盛信は織田の降伏呼掛けるも盛信はこれを拒否、徹底抗戦しますが抗しきれず自害、松姫は盛信の遺児を連れて勝頼たちとは別行動をとり、武蔵国多摩郡恩方(現在の東京都八王子市)の金照庵(現在の八王子市上恩方町)に逃れ身を寄せます。
 現在の恩方第二小学校の地が金照庵の跡と伝わります

 ここに辿り着いたのは新府城を2月4日に発ってから1ヶ月半以上経った3月27日。
 甲斐の山越えの最中に起こった武田家滅亡の悲劇を聞いたのはきっとここでなのでしょう。伴った幼き姫の父は3人共、もうこの世にはもういません。

 これより21年後の慶長8年(1603)には、松姫の姉で穴山信君(梅雪)未亡人の見性院もここ、金照庵に移り住んできます。
 見性院は松姫と共に、内々に託された将軍秀忠の子・幸松を養育します。後の初代会津藩主・保科正之です。