松姫ゆかりの地を訪ねて
海島寺(松姫一夜を乞う)
海島寺は永徳2年(1380年)武田家支族・栗原城主栗原武続(大翁寺)が先祖の菩提の祈願所として「開桃寺」と称して創建。
ちなみに、武田信虎より七代前の武田家の当主である武田刑部大輔信安の四男である武続が最初に栗原を称しました。信虎の時代武続のひ孫にあたる栗原信友から武田家に従っています。
もともとこの辺り一帯はかつて栗原氏の本拠だったため、ゆかりの大翁寺・妙善寺などが近くにあります。
寺域に桃樹が多かったため「開桃寺」と呼ばれていた様ですが、構内が高く日川の氾濫時にも洪水の被害を免れて島となったところから海島寺とも呼ばれたました。
おそらく、武続がこの寺を創建した季節が春で桃の花が咲き乱れていたので開桃寺と命名したのでしょう。
その後、武田信虎公の伯母・宝山玉長老尼が尼寺として再興し、2世も信玄公の伯母・天徳祖瑞長老尼が後を継ぎ、その後も武田家有縁の姫君が尼僧となり11代続きました。
後に徳川家康が領地の視察に訪れた時に『観音の霊場尋ね来て見れば、この栗原の海の島寺』と読み残しているので現在は海島寺を使用しています。
こうした関係から、武田家没落後も徳川家より庇護を受けることとなり、また、宝永4年(1707年)柳沢吉保の命により信虎公の弟・大泉寺2世吸江英心大和尚を勧請開山として尼寺から僧寺に改め、今日では尼寺に至ります。
宗派は当初臨済宗だった様ですが、信玄の命によって曹洞宗に改宗したと言われています。
本尊は六尺八分の観音様で、天台宗二世の慈覚大師が中国へ渡る折に海で嵐に遭いその時船の帆柱に現れ嵐を鎮めた観音様で、その帆柱の木で大師が自らの姿を彫られたと伝わっています
庭には、栗原氏の祖、栗原十郎武続墓印の石があると「甲斐国寺記社記」には記されているが、墓は未確認です。
また、武田信虎に反抗し敗れた、栗原伊豆守信友、その父民部少輔信遠、さらに信友の孫にあたり、武田信玄に仕え、活躍した左衛門尉昌清もこちらに葬られたともいわれます。
さて、松姫との関係ですが、新付城から逃避行を続け、入明寺を発った松姫一行は、石和の地笛吹川の川辺で一休みした後に、栗原の地に着きました。
しかし、もう陽が暮れていたことから、海島寺に一夜の宿を乞う事にしました。武田信虎や信玄の伯母さらに11代続いた尼が全て武田関係者なので松姫が隠れるには都合がよかったのかもしれません。
果たしてそのとおり、事情を知った尼僧の温情によりしばらく滞在することになりました。
そのころ風聞として兄仁科盛信が三月二日城を守って壮絶な討死をしたことが伝わってきたのです。
【交通】
山梨市駅 から徒歩32分(2.5km)
JR中央本線(東京~塩尻)最寄のバス停山梨市駅
→ 上栗原 下車 徒歩3分(189m)
【住所】
〒405-0022山梨県山梨市上栗原103