躑躅ケ崎館(松姫ここに生まれる)

松姫ゆかりの地を訪ねて


躑躅ケ崎館(松姫ここに生まれる)

躑躅が崎  松姫は、1561年(永禄4年)に、甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)の戦国武将「武田信玄」の五女(四女、六女とする説も)として、武田信玄の居所「躑躅ヶ崎館」(つつじがざきやかた)に誕生した。
 母親は、側室「油川夫人」(あぶらかわふじん)。

 躑躅ヶ崎館は、山梨県甲府市古府中にある平城(居館跡)。
 甲斐守護であった武田氏の本拠である甲府に築かれた城館で、武田信虎、武田信玄、武田勝頼の3代、63年に亘って国政を執った場所。
 1519年に石和(いさわ)から移ってきた信虎が、足利義満の「花の御所」を参考にした館を構えたことから「武田氏館跡」とも呼ばれる。

武田神社 躑躅ヶ崎館があった場所は、南に面したなだらかな扇状地の高台に位置するため甲府盆地方面の展望が望める。
 北側は1000m以上の山々がそびえ立ち、西と東にも峰があるため、敵の侵攻は甲府盆地側(南側)からのみとなり、防御に適している。

 東西二町(200m)四方の規模を誇る主郭部は、武田氏の生活の場であると同時に領国を統治するための政庁であり、武田氏の勢力拡大に伴い、曲輪と呼ばれる堀と土塁で区画された附属施設が主郭部の周囲に増設された。
 甲斐武田氏の城郭の特徴がよく現れた西曲輪虎口や空堀、馬出しなどの防御施設を配した構造になっている。

 また、山からの湧水もあり、多数の井戸により水の確保もできたため、長期の籠城も可能だった。
 なお、井戸には「姫の井戸」と呼ばれる井戸もあり、武田信玄の娘の産湯などに使用されたというため、松姫や菊姫にも使われたのかもしれない。

武田神社 さて、その松姫、婚約したとはいえ、幼く、婚約者である信忠もまだ11歳というから、輿入れは当分先のことになり、織田家の正室を武田家があずかるという形で、松姫は甲斐で生活を続けることになった。

 その際、松姫は、「新館御寮人(にいだち/にいだてごりょうにん)」と呼ばれるようになる。
 「新館」の意味は、躑躅ヶ崎館に彼女の住居を作ったことに由来するとも言われている。

 1573年(元亀4年)、松姫の父・武田信玄が亡くなると、武田勝頼が家督を相続。1575年(天正3年)の「長篠の戦い」において武田軍が織田軍に惨敗すると、松姫は兄「仁科盛信」(にしなもりのぶ)を頼り、躑躅ヶ崎館を出て、信濃国の「高遠城」(たかとおじょう:現在の長野県伊那市)に身を寄せた。
躑躅が崎
 1581年(天正9年)、勝頼は新府城を築いてそこへ移った。この時、勝頼は後顧の憂いを断つかのように老臣らの諫止を受け入れずに躑躅ヶ崎の館に火を放った。

 躑躅ヶ崎の館は武田三代の府城としての役目を終えた。

 同時にこれは戦国大名武田氏の終焉でもあった。勝頼は翌年三月、田野に追い詰められ、自害して果てた。
 武田勝頼が命を落としてからは、甲府に入った河尻秀隆が躑躅ヶ崎館を一部再建したようだが、すぐに本能寺の変が勃発して、甲府にて落命する。
松姫
 その後、甲府を治めた徳川家康によって、改めて館域は拡張されて天守台も築かれた。

 1590年、徳川家康の関東移封後、豊臣秀吉の命により羽柴秀勝・加藤光泰らによって現在の甲府駅近くにある一条小山(一条忠頼の居館跡)に「甲府城」(舞鶴城)を築城すると、躑躅ヶ崎館は不要となり、破却されるが、「古城」や「御屋形跡」と呼ばれて名所のひとつとなった。

 1904年(明治37年)の「日露戦争」ののち、武神や軍神を祀ることが奨励されたこともあり、戦上手として知られる武田信玄を祀る神社建立の熱が高まっていく。

 1915年(大正4年)、「大正天皇」の即位に際して、武田信玄に従三位が追贈されたことを契機に、山梨県知事を総裁とした官民一体の「武田神社奉建会」が設立。1919年(大正8年)、武田氏の遺構である躑躅ヶ崎館の跡に創建されることになった。

〒400-0014  山梨県甲府市古府中町・屋形三丁目・大手三丁目
甲府駅からバスで10分