向嶽寺(松姫 逃避行の滞留先)

松姫ゆかりの地を訪ねて


向嶽寺(松姫 逃避行の滞留先)

   松姫の逃避行中に滞在した向嶽寺は、山号を「塩山(えんざん)」といい、その名のとおり、山梨県塩山市に向嶽寺と松姫所在し、甲府盆地の東北部に 、こんもりと突き出た小高い山の南麓に抱かれるようにたたずんでいます。
 
 この小高い山が、『志ほの山 さしでの磯に すむ千鳥 君が御代をば 八千代とぞなく』と古今和歌集に歌われた塩山市の象徴「塩の山」であり、お気づきの通り、塩山市と言われる地名はこの山の名に因んでいます。
 海のない山梨で塩山というのは、違和感がありますが、どうやら「塩の山」は「四方の山」が訛ってできたものだとか。

臨済宗には向嶽寺派という宗派があり、ここがその本山です。

向嶽寺と松姫寺史によれば、当寺は、康暦2年(1380)、抜隊得勝禅師(ばっすいとくしょう)〔慧光大円禅師〕がこの地に草庵「向嶽庵」を開いたことに始まるという。
 禅師は鎌倉幕府が滅亡する直前の嘉暦2年(1327)に相模国中村(神奈川県足柄上郡中井町)に生まれたとされる。

 その後、弟子らの働きかけで甲斐国守護・武田信成より寄進を受けて、1380年正月に塩山向嶽庵を開き、臨済宗向嶽寺派「向嶽寺」を創建したとされている。
 また、後亀山天皇との親交もあったようで、1385年に後亀山天皇の勅願所にもなっている。

その後、信重、信昌、信虎の歴代守護や彼らの重臣、在地武士も保護を加え、多くの寺領寄進状や 安堵状が今に残される。
向嶽寺と松姫
 また、晴信(信玄)も中興を図り、自らの祈願所とし、天文16年(1547)に開山抜遂が後奈良天皇から恵光大円禅師 の称を贈られたのも信玄の斡旋によるものといい、その際寺号を向嶽庵から現寺号「向嶽寺」に改めるとともに、 寺中で守るべき法度を定めた壁書を信玄から与えられた。

 武田氏の滅亡後も徳川家の庇護を受け、延亨2年(1745)幕府に提出した寺院帳によれば向嶽寺を本寺として塔頭35、末寺49、孫末寺32があり、別に離末寺27が挙げられている。

 「嶽」と言うのは富嶽、すなわち富士山の事を示しますので、富士山に向かっている庵、富嶽(富士山)へ向かう寺という意味をもつ寺の佇まいは、仏都を思わせるような風情がある。確かに、向嶽寺は参道なども富士山の方角を向いています。向嶽寺と松姫

 また、創建以来600年を超える長い歴史のなか度重なる火災や戦火に遭ってきたが国宝「絹本著色達磨図」を筆頭に失われることなく今日に伝えられてきた文化財は少なくない。
 
 一方、建築物としては、多くの被災のうちでも最大の火災は天明6年(1786)に起こり、伽藍の大半を失ったという。以後徐々に復興されたが、古建築としては、中門(室町時代-重要文化財)を残すのみである。

 さて、松姫は、高遠城にいましたが、仁科盛信より小督姫やまだ6歳の仁科信基を預かり、新府城に逃れると、更に武田勝頼の娘・貞姫、小山田信茂の娘・香具姫(香貴姫)らと、1582年2月にこの向嶽寺に逗留しました。向嶽寺の住職は快く受けいれたといいます。向嶽寺と松姫

その後も、どうやら1か月程度は、向嶽寺にいましたが、やがて織田信長が甲府に入り、残党狩りを行っていると聞くと、裏手の塩ノ山に隠れました。

 そして、向嶽庵の第3世・俊翁令山和尚が1384年に開山した、八王子の金照寺(金照庵)がよい所だからと、保護依頼状をしたため、武蔵の国までの道筋をくわしく教え励ましたといいます。

 石黒八兵衛、同朋何阿弥が供をしたとも、上原義実(上原讃岐守義実)が供をしたとも見受けられる。翌朝厚く礼を述べると大菩薩方面に向かって険しい山道を辿って行ったと伝えられる。
 恐らくは、生き残った武田家臣が武田の宝物を避難させた雲峰寺を経由し、大菩薩峠を越えて、小菅村に降り、檜原村経由で鶴峠を越えたものと推定されるが、諸説あり、良く分かっていない。
 3月27日、陣馬街道の和田峠(案下峠)を下り、八王子・上恩方にある金照庵に到着。

 また、その後、甲斐に侵攻した織田信長は甲斐の寺社を徹底して焼き払っていきますが、向嶽寺はその難から免れます。向嶽寺は朝廷の庇護を受けた大寺院であったため、朝廷を利用することを考えていた信長は思いとどまったのではとも言われている。

 なお、天目山の戦いで命を落とした武田勝頼が最後に武田信勝に着せたと言う、武田家の家宝「楯無」の鎧は、家臣がこの向嶽寺に持ち帰り、庭の大杉の下に埋められたが、後年、徳川家康が入国した際に掘り出させれて、菅田天神社に納められた。

【交通】
 バス:JR塩山駅南口から西沢渓谷行、向嶽寺下車
 徒歩:JR塩山駅北口から徒歩で約20分

【住所】
 〒404-0042 甲州市塩山上於曽2026