金照寺 松姫ゆかりの地を訪ねて~松姫の物語

松姫ゆかりの地を訪ねて


松姫が目指した金照庵

  

 松姫が武田家滅亡の苦難の中、最終的な逃避先として目指したとされるのが、武蔵国多摩郡恩方(現在の東京都八王子市上恩方町)にあった金照庵です。
 この金照庵は、後に金照寺として発展しました。松姫がこの地を目指した背景には、武田家と金照寺の間に存在する深い由緒が大きく関わっています。

 金照寺は、至徳三年(1384年)に俊翁令山和尚によって開山されました。この俊翁令山和尚は、武田家とゆかりの深い禅寺である向嶽庵(現在の向嶽寺、山梨県甲州市)の第三世にあたります。

 向嶽寺は、武田信玄の父である武田信虎が保護し、武田家の菩提寺ともいえる寺院でした。このような関係性から、金照寺と向嶽寺は「門徒兄弟」の間柄、つまり同じ法流を汲む寺院として、非常に密接な関係にありました。武田家の人々にとって、向嶽寺は精神的なよりどころであり、その流れを組む金照寺もまた、信頼のおける場所であったと考えられます。

 松姫が縁もゆかりもない八王子の山中に逃れる際、なぜこの金照庵を選んだのかという疑問は、この向嶽寺とのつながりを理解することで氷解します。
 父・信玄や武田家が深く帰依していた向嶽寺の法流に属する寺であれば、そこには必ずや武田家を庇護してくれる者がいる、という確信があったのでしょう。

 天正10年(1582年)、織田信長・徳川家康の連合軍による武田攻めが開始され、武田家は滅亡へと向かいます。この時、松姫は兄の武田盛信(信玄の四男)の遺児を連れて、勝頼たちとは別行動をとります。

 岩殿城主であった武田盛信は、織田軍の度重なる降伏勧告を拒否し、徹底抗戦の構えを見せますが、多勢に無勢、ついに抗しきれず自害して果てます。
 この混乱の中、松姫は盛信の遺児を連れて、危険な戦場を離れ、比較的安全な地へと落ち延びることを決意します。そして、武田家との縁が深い金照庵を目指したのです。

 松姫が恩方の金照庵に身を寄せたことは、当時の武田家を取り巻く厳しい情勢と、彼女自身の決断の重さを物語っています。
 武田家の庇護を失った中で、武田家と縁のある寺院に助けを求めることは、生き延びるための唯一の希望だったのかもしれません。

 現在、金照庵の跡地は、八王子市立恩方第二小学校の敷地と伝わっています。具体的な遺構は残っていないとされますが、
 この地に松姫が身を寄せ、一時の安穏を得たという歴史は、地域の人々に語り継がれています。小学校の敷地という、現代の日常の中に松姫の足跡が残されていることは、歴史が今もなお息づいていることを感じさせます。

 金照寺(金照庵)は、松姫の苦難の逃避行を支えた場所であり、武田家の滅亡という激動の時代において、彼女が生き抜くための希望を与えた重要な拠点でした。この寺院の歴史を紐解くことは、松姫の生涯、そして戦国時代の武田家の動向を理解する上で不可欠な要素と言えるでしょう。