鬼の正体は疫病
鬼の正体が疫病であるという説は、単なる民間伝承に留まらず、当時の歴史書や文学作品に描かれた疫病の惨状と、人々の恐怖心が結びついて形成された、非常に信憑性の高い見方です。具体的な文献を紐解くことで、この説の根拠をより深く掘り下げていきましょう。
平安時代は、度重なる疫病の流行に見舞われ、特に天然痘(疱瘡)は人々にとって最大の脅威でした。一条天皇の時代に限定せず、平安時代を通して幾度となく疫病が猛威を振るい、その様子は当時の歴史書に克明に記されています。
平安時代の出来事を記した歴史書である『日本紀略』には、疫病の流行に関する記述が多数見られます。例えば、天禄4年(973年)には「大疫、死者衆多」とあり、多くの死者が出たことが記されています。また、一条天皇の時代に入ってもその状況は変わらず、長徳元年(995年)には「疫病大流行、死者盈路(みちにあふ)」と、路上が死体で溢れた様子が記録されています。これはまさに、酒呑童子伝説で語られる「鬼屋敷に人骨が累々と捨てられる」情景と重なります。人々が「赤疱瘡」と呼んで恐れた天然痘の赤い発疹は、赤鬼の姿と容易に結びついたことでしょう。
また、同じく平安時代の仏教的歴史書である『扶桑略記』にも、疫病に関する記述が散見されます。特に、疫病が蔓神(えびやうのかみ)や鬼神(きしん)の仕業であると信じられていたことが示唆されており、疫病と鬼が同一視される土壌があったことがうかがえます。
このような歴史書が示す疫病の現実が、どのようにして鬼のイメージと結びついたのでしょうか。当時の人々の心理や信仰に着目することで、その関連性が見えてきます。
まず、平安時代に盛んだった陰陽道(おんみょうどう)においては、病気や災厄をもたらす邪気の入り口として「鬼門」という概念がありました。鬼が災厄や病気を運んでくる存在と認識されていたことがわかります。疫病が蔓延する状況は、まさに鬼が都に現れ、人々を苦しめているという恐怖と結びつきやすかったのです。
また、古くから日本では、疫病をもたらす存在として疫病神の信仰がありました。疫病神は、しばしば恐ろしい鬼の姿で想像され、節分などの行事で行われる追儺(鬼やらい)は、この疫病神(=鬼)を追い払うための儀式でした。鬼が疫病の具現化された存在として認識されていた証左と言えるでしょう。
ところで、「酒呑童子伝説」において、鬼たちが大量の酒を飲んで人肉を食らう描写は、疫病の流行によって社会が混乱し、秩序が失われた状態を暗喩していると考えられます。大量の死者が出た結果、死体の処理が追いつかず、飢えや混乱の中で人々が倫理観を失うといった、疫病がもたらす極限状況が鬼の所業として描かれた可能性が高いのです。また、鬼の本拠地が山奥にあるとされたのは、当時の人々にとって、未開の山は不気味で疫病の根源がある場所と認識されていたことも関係しているかもしれません。
これらの文献や民俗学的背景を踏まえると、「鬼の正体は疫病である」という説は、当時の社会情勢、人々の信仰、そして文学的表現が複雑に絡み合って生まれた、非常に説得力のある解釈であると言えます。目に見えない疫病の脅威を、具体的な「鬼」という姿に投影することで、人々は恐怖を認識し、対処しようと試みたのでしょう。
鬼の物語は、単なる架空の存在を描いたものではなく、平安時代の人々が経験した疫病という現実の恐怖と、それに対する深い絶望、そして克服への願いが込められた、歴史の生きた証拠なのです。