八王子千人同心

八王子千人同心 時代を駆け抜けた誠の武士達

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千人同心の武芸

小人頭から千人頭へ

 八王子千人同心の前身にあたる「小人頭(こびとがしら)」の活動については、彼らが八王子に移住する以前の史料が非常に限られています。限られた史料を活用して歴史をひも解いてみます。

 1. 小人頭の記録と史料
 八王子千人同心の前身にあたる「小人頭(こびとがしら)」の活動については、彼らが八王子に移住する以前の史料が非常に限られています。代表的な史料には、千人頭・河野家に伝わる享和元年(1801)の『申伝書』、宝永元年(1704)の窪田家由緒書、そして文政期に組頭・塩野適斎によって著された『桑都日記』などがあります。

 これらの史料は、いずれも千人頭や同心の由緒を後年に記録したものであり、当時の実態を完全に再現することは難しいものの、制度形成の過程を知る上で貴重な情報を含んでいます。

2. 武田氏時代の小人頭 ― 「甲州九口」と道筋奉行
 『申伝書』などの記述によれば、小人頭9名は、武田信玄の支配下にあった甲斐国において、「甲州九口」と呼ばれる主要街道(例:中山道口、青梅口、下山口など)を監視・管理する「道筋奉行」として活動していました。この役職は、国境警備や情報連絡、軍事的な巡視を主な任務とし、各道筋ごとに1人が配置されていたと考えられます。

 同史料には、「番所江壱人宛相越」「同役壱人宛相添候」などの表現があり、9人が交代制または協力体制で勤務に当たっていた可能性が指摘されています。これは、彼らが単なる個別任務ではなく、一定の組織的連携をもって行動していたことを意味しています。

 ただし、武田氏の滅亡(天正10年、1582年)以前に9人が「グループ」として一括された記録は乏しく、明確な制度的結合が形成されたのはそれ以降とみるのが妥当です。

3. 天正10年と家康の登場 ― 本領安堵と同心還補
 武田家が滅びると、甲斐国は一時織田信長の支配下に入りましたが、本能寺の変を経て、最終的に徳川家康の領地となります。この混乱の中、家康に臣従した旧武田家臣たちには本領安堵の朱印状が発給されました。

 『申伝書』には、窪田助之丞・石坂勘兵衛・山本弥右衛門尉・荻原甚丞・河野但馬守など、後の千人頭となる人物がこのとき朱印状を受け取ったことが記されています。これらの日付は近接しており、短期間にまとめて発給されたようですが、日付が近いことのみから、彼らが一団として扱われていたと断定することはできません。

 一方、「同心還補」の朱印状(役目に就くことを認める朱印状)においては、文面・書式が共通で、日付も多くが天正10年9月1日となっており、形式的にも一括処理されたことが分かります。これは、徳川氏が旧武田家臣のうち、特定の機能を持ったグループを再編成して活用した証左といえるでしょう。

4. 「九人中」としての正式な組織化
 『桑都日記』には、「鷹下の士に命じ、また十衆二百五十人を挙げ、長柄組と命ず」とあり、小人頭たちが徳川氏の鷹狩の警護役として250人の同心を率いる組織(長柄組)を編成したことが記されています。

 さらに、天正11年(1583年)4月18日付の朱印状には「九人中」という宛名が使われており、ここに至って彼ら9名は完全に1つのグループとして認識され、千人頭制度の原型が整えられたと考えられます。

 この制度は後に、幕府直轄領である日光東照宮の警備を担う八王子千人同心へと発展していきます。千人同心制度は、江戸幕府の軍制において地方常備兵的な役割を果たしつつ、譜代家臣でもなく、国持大名にも属さない「準旗本的存在」としての独特の地位を築いていきました。

5. 歴史記録の限界と意義
 「申伝書」や各種朱印状は、制度成立の過程を示す手がかりではありますが、いずれも後年に作成されたものであり、当時の実態をそのまま反映しているとは限りません。そのため、記述の意図や背景に注意しつつ、複数の史料を照らし合わせて検討する必要があります。

 とはいえ、小人頭から千人頭、そして千人同心への組織的変化は、戦国末期から江戸初期にかけての政治・軍事体制の変化を示す好例であり、八王子の歴史と幕府の地方統治構造を理解するうえで重要な視点を提供してくれます。

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八王子千人同心の役職と格式

  「八王子千人同心」は江戸時代に、幕府直属の武士たちが八王子に1,000人ほど集められて組織された、特別な軍団の名前です。ふだんは農業をしながらも、いざというときには警備や治安維持のために働いた、いわば“半分武士、半分農民”のような人たちでした。

この千人同心には、いくつかの「役職」と「格式(地位の高さ)」がありました。

■ 千人頭(せんにんがしら)――トップに立つ人たち
 千人同心の中で最も地位が高かったのが「千人頭」です。これは、10人ほどいて、それぞれが200石から500石の収入を持つ旗本(はたもと)という身分の武士でした。一部の人は、お米で支給される「蔵米(くらまい)」を200俵もらっていました。彼らは八王子の「千人町(せんにんまち)」という場所に与えられた屋敷に住み、月ごとに交代で組織の運営を担当していました。これを「月番(つきばん)」といいます。

 実は、「千人町」という地名も、もともとは500人の同心が住んでいたことから「五百人町(ごひゃくにんまち)」と呼ばれていたのが始まりです。その後、1,000人の体制になってからも、しばらくは昔の呼び名が残っていたようです。

■ 格式の変化と「旧席復帰(きゅうせきふっき)」の努力
 千人頭は、もともと江戸城では「つつじの間」という格式の高い詰め所に座ることができていました。ところが1657年、石坂勘兵衛(いしざかかんべえ)という千人頭が、間違えて入ってはいけない部屋に入ってしまい、それ以来「御納戸前廊下(おなんどまえろうか)」という格下の席に下げられてしまいました。

 この“格下げ”を元に戻そうと、千人頭たちは江戸時代を通じて「旧席復帰運動」を続けました。北海道の開拓や全国各地の地図作り(地誌探索)など、いろいろな仕事に積極的に取り組んだのも、この運動の一環と考えられています。

■ 「千人同心取締方肝煎(かんせい)」の設置
 1791年には、千人頭のうち3人が「千人同心取締方肝煎」という新しい役職に任命されました。この人たちは江戸の四谷にあるお寺のそばに役宅を持ち、江戸と八王子の連絡や事務処理をスムーズにするための役割を果たしました。

■ 平同心(ひらどうしん)――ふつうの隊員たち
 千人同心のほとんどを占めていたのが「平同心」と呼ばれる人たちです。彼らの年収は、お米で10俵から12俵ほどと決して多くはなく、収入の格差はあまりありませんでした。

 普段は八王子周辺の村で農業をして暮らし、日光東照宮の火の番(火事対策の警備)などの公務は、10年に1度くらいの割合で回ってくる程度でした。村の人別帳(にんべつちょう)や五人組帳にも記載され、ほとんどは「農民」として扱われていました。

■ 同心の身分と世襲の仕組み
 千人頭のように代々その家が地位を受け継ぐ「世襲制」ではなく、平同心は基本的に「一代限り」の身分でした。このため、子どもがそのまま地位を継げるわけではなく、新しく手続きをして「番代(ばんがわり)」として採用される必要がありました。

 しかし、実際には同心の「株(かぶ)」、つまり地位を売買することができたので、お金を出せば他人に地位を譲ることもできました。こうした理由から、江戸時代を通して千人同心としてずっと続いた家はごくわずかでした。

 たとえば、1819年の記録によると、豊臣秀吉の時代(天正)から続く同心の家は66家、徳川家康の時代(慶長)から続くのは55家で、あわせても144家しかありませんでした。

■ 組頭(くみがしら)・世話役(せわやく)などの役職
 平同心の中には、役職についた人もいました。たとえば「組頭」は部隊のリーダー的な立場で、「世話役」はその補佐役でした。組頭になると収入が30俵を下回る場合は補填されましたが、世話役にはそういった手当はなかったようです。

 また、のちの時代になると「見習」や「並(なみ)」「次席(じせき)」といった補助的な肩書も増えてきて、役付きの同心が多くなっていきました。

■ 特別な扱いを受けた同心たち
 長く勤めた人や特に優れた働きをした人には、「御譜代(ごふだい)」という名誉ある地位が与えられ、代々同心を務められるようになりました。また、「旧家一代組頭(きゅうかいちだいくみがしら)」という称号を与えられた家もありました。

一部の家には「無役(むやく)」という名誉称号もあり、これは“役がない”という意味ではなく、“ふつうの同心とは違う特別な身分”という意味合いがありました。

■ 株の売買と役職創設の背景
 新しい役職がつくられた理由については、はっきりとは分かっていません。考えられているのは、(1)同心の家からの要望に応えた、または(2)地位の売買があまりに多かったため、子どもを「見習」として採用し、事実上親から子への継承を認めたのではないか、という2つの説です。

■ 幕末の動員とその後
 幕末になると、千人同心も戦争に動員されることが増えました。たとえば「天狗党(てんぐとう)」という反幕府勢力への対策として、甲府に出兵したこともありました。また1866年には「千人隊」と名前を変え、西洋式の軍隊制度を取り入れて横浜の警備や長州征伐にも参加しました。

 1868年、明治維新の中で八王子が新政府軍に占領され、幕府が崩壊すると、千人同心には「新政府の役人になるか」「農民に戻るか」の選択が与えられました。結果として800人以上が農民になる道を選びました。

 明治政府が「廃刀令」を出して刀の所持を禁じるのは1876年ですが、八王子ではその8年前、1868年の時点で刀の携帯を禁じられました。これは、江戸時代の身分社会が終わり、新しい時代が始まることを象徴する出来事といえるでしょう。

 このように、八王子千人同心は単なる武士の集まりではなく、特別な制度と役職の中で、時代の大きな変化とともに歩んできた存在だったのです。

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八王子千人同心の月番制

  八王子千人同心における「月番制」は、彼らを統率する千人頭(せんにんがしら)の職務運営において導入された制度であり、組織の効率的な運営と秩序維持の両面から重要な役割を果たしていました。

 八王子千人同心は、10名の千人頭に率いられた約1,000名の同心で構成されていました。千人頭はいずれも将軍への拝謁が許される旗本格の身分で、知行地を与えられた上級武士でした。彼らは月ごとに当番を務め、順番に職務を担う体制がとられていました。

 当番の千人頭は、配下の組頭(くみがしら)や平同心からの願書・届書の処理をはじめ、組織全体の統括責任を負いました。これらの事務作業や管理業務は、組織の円滑な運営に不可欠なものであり、当番制によって公平に分担されていました。

 さらに、千人同心は1652年(承応元年)以降、日光東照宮の警備・防火・消火を担当する「日光火之番」の任務も与えられており、この勤番においても月番制が機能しました。当初は千人頭2名と同心100名が50日交代で勤務していましたが、1791年(寛政3年)には、千人頭1名と同心50名が半年ごとに交代する体制に改められました。

 勤番中の千人頭は、火事羽織を着用して役所に赴き、門や櫓の交代、火事道具・小屋遣(こやづかい)道具目録、日記帳などの受け取り、日光山内の巡回や消火指揮など、多岐にわたる任務を遂行しました。出発に際しては1ヶ月前から準備が始まり、出番者の名前が月番の千人頭から鎗奉行(やりぶぎょう)に報告されました。

 このように、月番制は単なる勤務のローテーションではなく、組織運営と幕府統治の理念が反映された制度でした。月番制は、江戸幕府の要職(老中、若年寄、寺社奉行、町奉行など)にも広く採用され、権力の集中を防ぎ、組織の健全性を維持する統治哲学に基づいて運用されていました。

 八王子千人同心の千人頭においても、職務の多様性から業務負担の偏りが懸念され、月ごとの交代制が不可欠でした。これにより、各千人頭は公平に職務を分担でき、適切な休養と準備の時間を確保できました。業務品質の安定維持にも寄与したと考えられます。

 また、異なる千人頭が交代で同一業務を担当することで、知識や経験の共有が進み、個々の能力向上と組織全体のスキルアップにもつながりました。加えて、誰が当番でも一定水準の業務遂行が可能な体制を築くことは、組織のレジリエンス(柔軟性・回復力)向上にも効果的でした。例えば、日光火之番において病気や事故などで当番が職務不能になっても、他の千人頭が迅速に引き継ぐことが可能でした。

 さらに、当番の定期的な交代により、業務の進行状況や意思決定プロセスが複数の千人頭によって監督され、透明性が確保されました。不正や癒着の防止にもつながり、組織の規律維持と責任意識の強化に寄与しました。

 幕府は、特定の人物や家に権力が集中することを警戒しており、千人頭のようなある程度の自治性と独立性を持つ役職者に対しては、こうした制度的コントロールが求められていました。月番制は、派閥形成や私的影響力の拡大を抑制する手段としても機能したのです。

 また、月番制は将来の千人頭候補や若手の育成にもつながっていました。当番中の先輩の職務遂行を間近に見ることで、後進は実地に学ぶ機会を得ることができ、組織の持続的運営にも貢献していました。

 このように、八王子千人同心における月番制は、業務の効率化、公平性の確保、組織の健全性の維持、人材育成といった多様な目的を兼ね備えた制度でした。それは、江戸幕府の中央集権的な統治理念と、地方組織への抑制的統治とのバランスの上に成り立つ、合理的な制度設計だったといえるでしょう。

出典・参考文献:
本解説は、以下の文献等を参考に整理しています。
日光市公式ホームページ「日光火之番~八王子千人同心~」
(https://www.city.nikko.lg.jp/soshiki/15/1049/01/7171.html)
八王子市公式ホームページ「八王子千人同心の歴史」
(https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/003/002/p005303.html)
多摩市立図書館デジタルアーカイブ: 「多摩市史」通史編1
(https://adeac.jp/lib-city-tama/texthtml/d100010/mp000010-100010/ht060680)

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千人頭の成り立ちとその変遷

  千人頭とは、本サイトでも述べているように、武田氏の旧臣たちにルーツを持つ集団です。天正10年(1582年)、彼らは徳川家によって旗本として取り立てられました。
 具体的には、荻原昌之、石坂森通、窪田正勝、河野通重、窪田忠廉、中村安直、志村貞盈、原胤歳、山本忠玄の9名が、九口道筋奉行および御長柄組支配という重要な役職を命じられ、甲州に采地を拝領いたしました。
 そして同年12月には、遠州秋葉山において徳川家康公との臣従の誓いを立て、八王子千人同心の礎を築いたのです。

 この千人頭の10家には、時代の流れと共に幾度かの変遷が見られます。
 当初、(上・西)窪田氏の別家が千人頭の一員となりましたが、宝永4年(1707年)に残念ながら改易絶家となりました。
 その後、(下・東)窪田氏の別家が新たに興りますが、こちらも安永元年(1772年)に御家断絶という憂き目に遭います。
 しかし翌安永2年(1773年)には、(下・東)窪田氏の次男が(上・西)荻原氏を興し、再び10家体制が確立されました。
 しかしながら、幕末の嘉永4年(1851年)には、(下・東)窪田氏が無役閉門となり、遂に9家となり、この組を「明組」と呼ぶようになりました。
 ここで言う「上・下」や「西・東」の別は、甲州道中の上り・下り、あるいは東西の地理的区分によるもので、窪田氏は別族、荻原氏は同族の関係にあります。

 広大な屋敷と信仰への貢献 千人頭たちの屋敷は、その役職に相応しく広大なものでした。最大規模を誇ったのは志村氏と下窪田氏で、それぞれ7198坪にも及びました。次いで、原氏が7000坪、東荻原氏が5100坪、山本氏が5040坪、河野氏が4500坪、中村氏が4358坪、西窪田氏が3600坪、石坂氏が2000坪、西荻原氏が1917坪と伝えられています。
 これらの広大な屋敷は、彼らの地域における影響力と格式を如実に物語っています。
  また、彼らは地域の信仰にも深く貢献しました。山本氏は宗格院を、石坂氏は興岳寺を、下荻原氏は大法寺を開基し、原氏は本立寺を中興開基するなど、寺院の建立や再興を通じて、八王子の精神的な発展にも寄与しました。

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幕末の悲劇 仲間と戦う八王子千人同心

   蝦夷地七重に移住していた千人同心が、旧幕府軍に合流した千人隊と戦うという悲劇について、そのいきさつと顛末をご紹介します。これは、戊辰戦争における八王子千人同心の悲劇的な運命を示す、非常に重要な出来事です。

 幕末の動乱期、八王子千人同心は、その多くが佐幕派(幕府を支持する立場)でした。鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北した後、新政府軍の東征が進む中で、彼らもまた大きな選択を迫られることになります。
 慶応4年(1868年)3月、近藤勇率いる新選組を中核とする旧幕府軍は、甲州勝沼(現在の山梨県甲州市)で新政府軍と戦うため、「甲陽鎮撫隊」と称して甲府を目指しました。
 この甲陽鎮撫隊には、八王子千人同心の一部も参加していました。しかし、甲州勝沼の戦いで甲陽鎮撫隊は壊滅的な敗北を喫し、多くが捕らえられたり、散り散りになったりしました。

 甲陽鎮撫隊の敗北後、生き残った旧幕府の将兵や脱走兵の一部は、徳川慶喜の恭順方針に反発し、徹底抗戦を主張して江戸を脱走しました。
 彼らは榎本武揚を総裁とする旧幕府海軍を頼り、新選組の土方歳三、幕府陸軍の幹部らと共に、蝦夷地へと向かいました。
 この中に、甲陽鎮撫隊で生き残った八王子千人同心の有志も含まれていました。彼らは蝦夷地で、旧幕府軍の一隊として再編され、「千人隊」と称されました。この「千人隊」は、八王子千人同心として蝦夷地に移住していた者たちとは別の存在であり、あくまで旧幕府軍の戦闘部隊としての位置づけでした。

 一方、文政4年(1821年)に七重(現在の七飯町)に移住し、開拓に励んでいた八王子千人同心とその子孫たちは、幕府の直轄地である蝦夷地の住民として、比較的平穏な生活を送っていました。彼らは、開拓者としての役割が主であり、直接的な戦闘には関わっていませんでした。
 しかし、明治2年(1869年)春、新政府軍による蝦夷地への総攻撃が始まり、いわゆる箱館戦争が本格化します。旧幕府軍(榎本武揚政権)と新政府軍は、箱館(現在の函館市)周辺で激しい戦闘を繰り広げました。
 この中で、旧幕府軍は、新政府軍の箱館上陸を阻止するため、七重浜(現在の函館市七重浜)で防衛戦を展開しました。この時の旧幕府軍側にいたのが、先に述べた「千人隊」です。
 そして、この「千人隊」が戦った相手、すなわち新政府軍の先鋒の中には、皮肉にも七重の開拓に当たっていた、かつての同胞である八王子千人同心の子孫たちが含まれていました。

 ところで、七重の千人同心たちは、開拓移民として蝦夷地に定着しており、戊辰戦争が勃発すると、松前藩が新政府軍に恭順する中で、彼らもまた新政府軍の指揮下に入ることを余儀なくされました。彼らは箱館警備や、新政府軍の先導役、あるいは情報収集など、非戦闘員的な役割を担うことが多かったとされますが、新政府軍の指示により旧幕府軍と対峙することもあったのです。

 七重浜の戦いは、新政府軍が箱館へ上陸を試みる旧幕府軍を迎え撃つ形で行われました。
 旧幕府軍の「千人隊」は、その名の通り八王子千人同心ゆかりの者が多かったため、遠い故郷の八王子から離れた蝦夷地で、互いに刀を交えるという悲劇的な状況が生まれました。
 そして、七重浜の戦いは新政府軍の勝利に終わり、旧幕府軍は箱館山へ後退しました。
 この戦いで、多くの死傷者が出ました。新政府軍側で参戦した七重の千人同心の子孫たちも、この戦いに巻き込まれ、故郷を同じくする者同士が敵味方に分かれて戦うという、想像を絶する経験をしました。
 この七重浜の戦いは、八王子千人同心の歴史において、最も悲劇的で象徴的な出来事の一つとして語り継がれています。
 幕末維新という激動の時代が、かつて同じ組織に属し、同じ故郷を持つ者たちを、全く異なる運命へと引き裂いたことを如実に示しています。
 片や幕府への忠誠を貫き蝦夷地へ赴いた者たち、片や蝦夷地で生活基盤を築き、新政府軍の側に立たざるを得なかった者たち。それぞれの立場での「正義」と「選択」が、このような悲劇を生んだと言えるでしょう。
 遠い蝦夷の地で、本来なら互いを支え合うべき同郷の士が戦い合ったことは、後世にまで語り継がれるべき歴史の教訓です。
 現在、七飯町や函館市周辺には、この戦いの犠牲者を弔う慰霊碑などが存在し、この悲劇を今に伝えています。

千人同心の武芸

八王子千人同心の武芸

  八王子千人同心と聞くと、江戸時代に日光東照宮の警備などを務めた世襲の半農半士の集団、というイメージをお持ちの方が多いかもしれません。しかし、彼らは単なる警備隊ではありませんでした。文武両道を重んじ、厳しい武芸の稽古に励んだ、まさに「武士」の集団だったのです。
 八王子千人同心は、その身分を問わず、平同心に至るまで剣術の稽古が義務付けられていたことが明らかになっています。これは、彼らが平時においても武士としての技量を維持し、いざという時に備えるため、非常に重要視されていた証拠と言えるでしょう。
 具体的に、彼らがどのような流派で剣術を学んでいたのかは、当時の「月番日記」などの記録から確認することができます。そして、その多様性には目を見張るものがあります。

 天然理心流(近藤三助八王子流): 新選組の近藤勇も学んだことで有名な天然理心流ですが、八王子千人同心の中には、近藤三助が八王子に開いた系統の天然理心流を学ぶ者が多くいました。これは、地域に根差した流派として、多くの同心に親しまれていたことを示しています。  
 天然理心流(本派): 本流の天然理心流も学ばれていました。これは、八王子が江戸に近接していたことから、江戸で隆盛していた流派が八王子にも伝わっていたことを意味します。
 柳生心眼流: 剛柔一体の技を特徴とする柳生心眼流も、同心たちに受け継がれていました。実戦的な技法が多かったこの流派は、彼らの職務上、非常に有用であったと考えられます。
 小野派一刀流: 幕末の剣術界を代表する流派の一つである小野派一刀流も、八王子千人同心の中に学ぶ者がいました。その合理的な剣術理論は、多くの剣士を魅了したことでしょう。
 太平真鏡流: この流派は、八王子周辺に広まっていたとされ、千人同心の中にも伝承者がいたことが確認されています。地域色の強い流派も大切にされていたことが分かります。
 甲源一刀流: 独自の組太刀を特徴とする甲源一刀流も、同心たちの間で学ばれていました。

 それにしてもこれほどまでに多様な流派が存在していた背景には、八王子千人同心という組織の特性が挙げられます。彼らは世襲制であり、それぞれの家で代々伝えられてきた流派があった可能性もあります。また、江戸からの情報の流入、そして同心個々人の興味や選択も、多様な流派の共存に繋がったと考えられます。

 剣術の稽古が単なる個人の嗜みではなかったことは、寛政4年(1792年)の「松平和泉守御渡書付窮」という松平乗完への書簡からも裏付けられます。この書簡には、道場の設置と稽古の義務化が明記されており、幕府としても千人同心の武芸の鍛錬を強く奨励していたことが分かります。組織として武芸を奨励し、そのための環境整備まで行っていたことに、彼らの武士としての存在意義の重さが伺えます。

 さらに、剣術だけでなく、長柄(ながえ)の稽古も定期的に実施されていたことが分かっています。長柄とは、槍などの長い柄を持つ武器の総称で、集団戦において非常に重要な役割を果たしました。この長柄の稽古は、八王子の浅川で盛んに行われていた記録が残っています。浅川の広々とした河川敷は、集団で長柄の訓練を行うのに最適な場所だったのでしょう。これにより、彼らが個々の武芸だけでなく、集団としての統率された戦闘能力も磨いていたことが分かります。

 八王子千人同心は、日頃は農耕に従事し、有事には武士として機能する、まさに文武両道を体現した集団でした。彼らの武芸への真摯な取り組みは、単なる戦闘技術の習得に留まらず、武士としての心構えや精神性を養う上でも不可欠な要素でした。
 彼らが習得した多様な武芸は、個々の能力を高めるだけでなく、千人同心という組織全体の強靭さに繋がっていたと言えるでしょう。八王子千人同心は、私たち現代に生きる者にとっても、その文武両道の精神と、変化の時代に適応しながら多様な文化を取り入れていった柔軟性という点で、学ぶべき多くの示唆を与えてくれます。

梅女の悲劇

梅女の悲劇

 八王子千人同心隊がその警備のため、北海道の白糠、そして苫小牧勇払に夫々50人を引き連れ赴いた。
 しかし火山灰の土地に農作物は育たず、手持ちの野菜はすぐに底をついた。さらに冬の寒さは関東の武州と比べ想像を絶する。
 病人も続出したが、手当もできぬまま、その死を看取るほかに術はなかったという。

 さて、八王子千人同心頭、川西佑助の妻、梅はこの地「勇払(ゆうふつ)」へ来たただ一人の和人女性だった。
 その中で梅は、佑助の子を身ごもり出産する。
 だが母親の食べ物が満足に無いため乳がでない。
 赤児は、でない乳房をくわえて力無く泣くだけであった。
 梅はそれを見てどうすることもできない。
 夫の祐助は仕事に追われ留守がちである。

 梅も病となり、そのからだは日に日に衰弱していくのでした。
 ついに梅は愛しい赤児を胸に抱き「この子に、お乳を…」と言いながら二度と故郷の土を踏むことなく、入植して3年後の享和3年(1803年)5月22日夜、幼い赤子を気にかけつつ25歳という若さで梅は亡くなってしまった。

 梅の死後、雨の夜になると赤子を抱いた若い母親が「この児にお乳を下さい」と言って泣きながら近所の家の戸をたたいてまわり、可哀想にと思って外に出てみると誰も居らず、若い女性が墓場の方へ消えて行くという姿が何度も目撃されるようになった。
 近所の人は「あれは梅さんが、幼い子供を気にかけて亡くなったせいだろう。
 可哀想に…」と噂し、“夜泣き梅さん”と呼び、その霊を悼んだと言う。

 夫の佑助は妻への追慕と哀惜の情を「哭家人(かじんなげく)」と題し、七言絶句を墓碑銘に刻んだ。

万里の辺(ほとり)に游(あそ)びて未だ功成らず/わが妻ひとたび去りて旅魂を驚かす/子を携えて慟哭(どうこく)す穹盧(きゅうろ)の下/尽くし難し人間惜別の情

 梅が亡くなった翌年、同心隊は箱館奉行所勤務になり、開拓地は放棄された。祐助も5年後に勇払を撤収して箱館に移るが、勇払での疲労が重なったのでしょうか、ほどなく死去した。

 墓は伊達市有珠の善光寺にあり、梅の名も並んで刻まれている。
 建てたのは祐助と梅の遺児だったという。

 昭和48年には苫小牧市が千人同心隊の偉業をたたえ、その下には赤子を抱いた梅の像も建立した。愛し子を抱き、亡霊となった“夜泣き梅さん”の銅像である。この像は北海道苫小牧の市民会館横に建っている。

了法寺と蛇姫様

蛇姫様

 了法寺の境内に入ると本堂脇に6つの稲荷明神を勧請した稲荷社があります。その稲荷の一つに文護稲荷があります。

 文護稲荷には千人頭の娘にまつわる伝説が残されている。

 江戸時代のこと、追分に千人頭萩原頼母の屋敷があった。
 頼母には美人の一人娘がいた。
 その娘が金弥という若者と恋仲になった。
 近くの槍持の大森助八の女房は何かと二人の力になってやったが、これを知った頼母は不義の交わりと怒り、屋敷内のささげ畑の榎の下で二人を打ち首にしてしまいます。
 すると間もなく大森家の門の上に雌雄の蛇が現れるようになりました。
 その大森家が没落すると今度は隣の大野家の蔵に現れるようになった。ある日のこと、近くに住む百姓の三吉が二人を斬首した豆畑が空地になっているので、これを畑に耕し野菜などを作った。

 ところが間もなく発狂して死んでしまった。
 里人は蛇姫様の祟りだとして、榎の下に稲荷社を建て、文護稲荷と名付けて姫と若者の魂を弔った。
 その文護稲荷は今は了法寺の境内に他の稲荷とともに祀られています。

天然理心流と千人同心

天然理心流と千人同心

 志を掲げ、幕末を駆け抜けた新撰組。
 北辰一刀流、神道無念流などの剣客も多く在籍した新撰組ですが、局長の近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎など、中核を担うのは天然理心流の一門でした。
 実戦本位の剣法で、実際に命のやり取りをする場面になると当時、滅法強かったと言われる剣法ですが、新選組の消滅と共にいっとき、時代に埋もれてしまいました。
 日頃から有事の際に備えて剣術を始めとする武術の鍛錬を日課としていた八王子千人同心と「天然理心流」には深い関わりがありました。

 そもそも天然理心流が発祥したのは江戸中期の寛政年間頃といわれています。
 天然理心流の創始者・近藤内蔵之助は剣術の真髄を極めるため広く諸国を修行して歩き、古流剣術の源流といわれる鹿島新当流を学び、後に自ら創意工夫をこらし剣術・柔術・棒術・気合術を含む総合技術を考案し、「天然自然の法則にしたがう」ことで、心と体を鍛え技を磨くことから「天然理心流」と命名したことにはじまります。

 「天然理心流」は必殺剣であり、常に真剣勝負を想定している為、竹刀稽古に重点を置かなかったと言われます。

 さて、内蔵之助は勇躍して江戸に出向くと道場「試衛館」を開きましたが、当時江戸には斉藤弥九郎の練兵館、千葉周作の玄武館、桃井春蔵の士学館という、いわゆる「江戸の三大道場」がありました。「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と称えられたそれぞれは、時代を象徴するような多くの志士たちを生みだしました。

 これに比べると、天然理心流は、多摩など近隣の農民たちに門弟が多いためか「田舎剣法」「芋道場」と呼ばれて知名度も肩書きもない内蔵之助の流派に江戸の人々は見向きもしなかったと考えられます。
 これは江戸時代中期に当る寛政年間は戦いのない泰平の世となり、多くの剣術流派はそれまでの実戦志向から離れて道徳や学問を重んじる傾向が強くなり、必殺剣という実戦的な剣術を旨とする内蔵之助の天然理心流は泰平の世の人々から支持を得られなかったことによります。

 ところが内蔵之助の噂を聞きつけた一人の八王子千人同心組頭との出会いが天然理心流に大きな運命の転機をもたらしました。
 千人同心組頭の坂本三助は安政3年(1774)武州多摩郡戸吹村の名主である坂本家の長男として生まれ、当時まだ20歳の若者でしたが、千人同心の中でも剣の遣い手として知られていました。
 三助は泰平の世に流行っている軟弱な剣術よりも有事の際に戦場で有効な実戦的剣術を求めて模索していました。そこで三助は内蔵之助を八王子に招き手合わせを求め、この時に互いの実力を認め合ったといわれています。

 以後三助は内蔵之助に師事し、通常では20年掛かるといわれていた指南免許を10年で修得しやがて三助は内蔵之助の後継者となり天然理心流宗家2代目を襲名して近藤三助と名乗りました。

 こうして天然理心流は千人同心組頭だった三助が宗家2代目を相続したことで多くの八王子千人同心を門弟として迎え入れることになり、三助は内蔵之助と共に剣技を磨き、これが天然理心流の礎となったのでした。

 この時の弟子に後の増田蔵六がいます。蔵六は武州多摩郡戸吹村の千人同心坂本重右衛門の子として天明6年(1786)に生まれ、文政8年(1825)千人同心組頭の増田家の養子となり千人町の屋敷内に道場を設け千人同心達に天然理心流を指導したといわれています。

 ところが、三助は若くして病没してしまい、戸時代末期天保元年(1829)に宗家3代目の継承者に選ばれたのが近藤勇の養父・近藤周助(周斎)でした。

 周助(周斎)は初代宗家・内蔵之助が最初に江戸へ進出したことを想い、再び江戸に「試衛館」を開いたのでした。
 この「試衛館」には後の新選組の中核となる、近藤勇・土方歳三・沖田総司、山南敬助、永倉新八・井上源三郎、原田佐之助、藤堂平助等が稽古をしていました。

 しかし天然理心流本来の活動拠点はあくまで多摩にあったため、出稽古という形で師範が多くの道場を回るという活動が定着していたといわれています。
 天保5年(1834)に生まれ、近藤周助の養子となり4代目に就任した近藤勇もまた日野・八王子方面に出稽古に来ていたのでした。

桑都日記と千人同心

桑都日記と千人同心

桑都日記(そうとにっき)とは、文政期から天保期にかけて編まれた多摩地方八王子地区の地誌書のことです。書名の「桑都」とは、かつて「織物の町」と称せられた八王子を指し、千人同心組頭・塩野適斎が編纂しました。

 多年の調査と膨大な資料をもとに、天正10年(1582)から文政7年(1824)までの243年間を、八王子千人同心と地域の様々な事項について、編年式に解説を加えたものです。
 文政10年(1827)に正編15巻23冊、図解1巻2冊が完成、天保5年(1834)に続編24巻24冊、図解1巻1冊を脱稿し、正続合わせて江戸幕府に献上され、出版までには至らなかったが八王子地区の歴史研究の第一級資料となっています。

 「桑都日記」(極楽寺蔵)は東京都有形文化財(古文書)に指定され、現在八王子市資料館に寄託されています。2002年度(平成14年度)に修復がほどこされた際、表紙の芯紙から「新編相模風土記稿」津久井県之部の草稿の一部が発見され、初めて現物があることが確認されました。

千人同心の株売買

千人同心の株売買

江戸時代中期頃より千人同心の身分は「株」として売買され、千人同心職の譲渡が盛んになり、八王子に集住していた同心達に代わり、関東近在の農村に散在する富農層が千人同心職を兼帯するようになったといいます。

 こうして、当初は八王子に集中していた千人同心も東は東京都三鷹、西は神奈川県津久井、南は神奈川県相模原、北は埼玉県飯能まで居住域が広がるようになりました。
 なぜこのような同心株の売買が起こるかということですが、一般的な幕臣は、定められた職も特段なく、江戸の町中でただ漫然と過ごすにすぎません。
 ところが八王子同心はというと両刀を差して日光まで旅をし、日光では警備の仕事がありました。そこで、やや不謹慎ではありますが、侍気分を味わってみたいという富裕な農民や町人には魅力的に映ったようです。

 もっとも同心株の売買には千人頭の許可が必要で、その名目はたいてい同心の息子が病弱で勤務に耐えられないから養子を迎えるということでした。
 そして実際は何年かすると買った同心株は返還していたようです。

 さて、狭山茶で有名な埼玉県入間市の中島園には、同心株の購入について興味深い記録が残っています。
 中島家というのは根岸小谷田村(現入間市根岸)の農家の一つで、寛永12年(1635)10月の「検地帳」では、屋敷地1畝26歩、田畑は1町2反8 畝歩余の土地を所有しているとの記録も残っているようですから、かなり富裕な農家であったようです。
その9代目次郎順久は長く「八王千人同心」へあこがれていましたが、ついに天保11年(1840)11月に同心株を購入して、由緒番代わり、つまり名義上の 養子縁組という方法で実現したのでした。

 この株は八王子宿の榛沢逸作という千人同心が、病身で役務ができないという理由で売却先を求めていたもので、宗次郎は株金65両に諸経費 合わせて82両1分余の大金をかけて取得したということです。
 宗次郎は榛沢逸作がもともと属していた原半左衛門組に属し、「榛沢宗次郎」と名乗り役目に精進したということです。