八王子千人同心

八王子千人同心 時代を駆け抜けた誠の武士達

千人同心列伝 活躍した主な千人同心


石坂義礼

石坂義礼

 石坂義礼は八王子千人頭。通称、弥次右衛門。
 慶応4年(1868)、日光勤番中の義礼は、戊辰戦争において板垣退助の率いる官軍が日光に迫るを知り、日光を戦禍から守るべく幕府軍の大鳥圭介等に相談の上、日光を官軍に明け渡します。

 八王子に帰還した義礼に対し、一戦も交えず日光を官軍に明け渡した責任追及の声が強く、義礼は老父の介錯により切腹して果てたのでした。享年60。

 義礼は菩提寺・興岳寺(八王子市千人町)に葬られました。
 この義礼の決断は世界遺産・日光を今に伝え、その縁もあり日光市と八王子市は姉妹都市となります。
 境内には、昭和41年(1966)4月、義礼の顕彰碑が建てられ、義礼の墓の前には日光市から贈られた香炉が置いてあります。

 義礼の墓は八王子市の指定史跡となっています。

日光火之番八王子千人同心顕彰之燈(銘文)

 日光は、千二百年前に開かれた、天下の霊場であります。日光廟が造営されてのち、承応元年
(一六五二)幕府は武州(東京都)八王子の千人同心に日光火之番を命じました。千人同心は、遠い八王子から、交代でその任につき、父子あい伝えて、明治元年(一八六八)まで実に二百十余年に及びました。その間、寒暑を問わず、日夜警備につとめましたが、特に、貞享元年(一六八四)の大延焼や、文化九年(一八一二)の大楽院炎上などの際には、日光奉行所に協力し、身を挺してよく守りぬきました。また、戊辰の役(一八六八)には、勤番頭石坂弥次右エ門は、帰郷ののち、日光より戦わずして引き揚げた責任をとわれ、自刃しました。東照宮、輪王寺、二荒山神社の壮麗な殿堂は、こうして護持されたのであります。ここに、千人同心の功績を永く顕彰いたします。
     昭和三十三年十月十七日建立
     題字 徳川家正 撰文 佐々木耕郎
     書  菅原栄海 撰文 野口義造

千人同心

河野仲次郎

 幕末期の八王子千人同心頭で維新後に通唯と改名します。初名は通聿(みちのぶ)といいました。

 千人頭・志村内蔵助貞慎の次男でしたが、千人同心旗本河野家(270石)12代・河野通徳の養子となり、13代目を継ぐことになります。

 河野仲次郎は、安政4年2月より、新銭座(芝新銭座大小砲修練場)の鉄砲方教授・韮山代官・江川太郎左衛門英龍に入門して西洋砲術を修め、千人同心の伝統的な長柄歩兵式から西洋式へと軍事制度を転換する改革を着々と進めたのでした。

 この新銭座(芝新銭座大小砲修練場)には、千人同心は安政3年(1856)3月、各組から一人ずつ選ばれた組頭9名が門をたたいています。
 訓練を受け、帰郷するとこの9名を教示型手伝いとし、9組から同心42名が選ばれ高嶋流砲術が調練されました。
 そして、幕府最高水準とされる「高島流砲術免許」を、この調練によって七人の千人同心が修めています。

 この訓練を受けた千人同心の中でも千人頭の河野仲次郎の成績は特に抜きん出たもので、着発弾の伝授を受けています。
 この着発弾の伝授は免許皆伝の者にのみ許された高度なものですので、河野仲次郎は、当時の砲術に関する最高の知識と技術を修得していたといわれています。

 そして、これを整理し兵法の教則本を執筆し、陸軍奉行配下の「千人隊」を組織するのでした。
 1868年(慶応4年)上野戦争が始まると、200名近くの千人同心と組頭・日野信蔵(義順)と共に彰義隊に加わり、八王子方の中心的役割として参加しています。
  しかしながら、敗れて新政府軍(官軍)に捕らえられ、静岡藩に送致されるのでした。
 
 晩年に自由民権運動に関わった日野義順の碑も手がけます。
 その後、赦免されて東京に出て慶應義塾に学んだのち、大蔵省に入省することになります。

日野義順

日野義順

 日野義順は、八王子千人頭河野仲次郎の組頭日野嘉蔵義貴(ひのかぞうよしたか)」の長男として、天保10年(1839)6月13日に生まれました。
18歳のときから戸吹村(八王子市)の松崎和多五郎の道場で天然理心流を修行します。

 文久元年(1861)には近藤勇の天然理心流四代目披露の野試合に、一門を代表して出場しており、大将を支える4つの隊の隊長に抜擢されています。
 この時、義順の配下に山南啓介が付いており、山南が敵大将佐藤彦五郎を打ち取り赤軍が一矢を報いるなど記録されています。

 また、慶応2年に千人隊と改称する際、河野組の組頭となり、第二次長州征伐では千人隊小司を勤めています。

 慶応4年3月甲州街道を西から江戸に向かう土佐藩兵を中心とした新政府軍(官軍)を迎え撃つために近藤勇率いる甲陽鎮撫隊が甲府を目指すのですが、板垣退助の新政府軍に勝沼であっけないほどに破れ、江戸へ逃げ帰ることになります。
 板垣退助はすぐさま甲陽鎮撫隊を追討し八王子、日野へ厳しく探索します。
 この時、千人隊は戦う意志なしと新政府軍に恭順を示しました。

 しかし官軍に従う恭順派の行動に不満を持った非恭順派は江戸へ出て、彰義隊の上野戦争に八王子方として参加することになります。
 八王子方の中心的役割は千人隊之頭(旧千人頭)河野仲次郎が担い、河野組の組頭を勤めた義順も河野の副と言うべき地位で参加するのでした。

 しかしながら慶応4年5月15日、大村益次郎率いる新政府軍は上野の彰義隊に攻撃をかけ、彰義隊は一日で破れてしまいます。

 義順と河野は八王子へ戻ってくるが、首謀者として東征軍に捕えられ、甲府の一蓮寺に幽閉され、居宅を召し上げの処分を受けました。
 2人は吟味の上、預けられが明治2年(1869)1月に解放されました。

 その後、千人隊は解体され、隊士は駿河(静岡県)に従う随従派、多摩の農民として生きる土着派、新政府に出仕する朝臣派に分かれたが、義順は多摩の地域住民として再出発の道を選んでいる。
 
 維新後の明治6年(1873)学制発布により日野学校が開設されると義順は教師となり、現日野第一小学校の校長を勤めているのです。
 更に政治の世界に足を踏み入れ日野宿宿会議員に選ばれ議長にもなりました。
 多摩郡に自由民権運動が高まると、明治16年には自由党に入党のち神奈川県会議員になって活躍しています。
 こうした政治活動から明治20年代になると、一転して地方産業の振興に取り組むようになり、東京府農会議員、南多摩郡農会副会長に就任しました。
 さらに初代の日野町長として同33年10月~同39年4月まで在任し、大正5年(1916)4月18日、78歳で波乱に富んだ一生を終わったのでした。

 新選組の影に隠れ、余り報じられていない日野の剣士の一人といえるでしょう。

小谷田子寅

小谷田子寅

 千人同心の漢方医・伊藤猶白、小谷田子寅(しいん)らが 蘭学研究の先鞭をつけています。
 この二人に続いて本格的に蘭方を修行したのが町医者・秋山義方でした。

 小谷田子寅は八王子千人同心の一人で1761年(宝暦11年)4月4日、武蔵国多摩郡川口村(現・八王子市川口町)に生まれます。通称は権右衛門、諱は昌亮。
 塩野光廸(鶏沢)(塩野適斎の養父)に学問を、真鏡斎(若菜主計)に剣術を、岑貉丘に医術を学びます。また、天文学にも詳しく、西洋学を好んだといいます。 
 1831年(天保2年)4月11日、死去。享年71。心源院(八王子市下恩方町)に建つ「子寅先生碑」は八王子市の文化財に指定されています。
 同碑の撰文は塩野適斎、書は植田孟縉が担当した。

秋山義方

秋山義方

 秋山義方は椚田村千人同心飯田佐兵衛の子として生まれました。五歳のとき子安村秋山杢兵の養子となり、小林亨庵に医学、湊長安に眼科を学びましたが、四十歳前後になって江戸に出て蘭学を学びました。

 そして、この地八王子子安町、現、万町で蘭方眼科を開業、「義庵さんの目薬」と親しまれるかたわら蘭書などを復刻しました。

 なお蘭学者・高野長英は天保二年(1831)には門人とともに義方の家に数日滞在しています。
 このとき義方の長男・左蔵は十六歳でした。
 左蔵はやはり千人同心の組頭で、眼科の父に対し、内科で身を立て、ドイツの医学書をオランダ語に翻訳し、活字製造から手がけて印刷出版したという、幕末の八王子文化史上偉大な業績を残しました。
 秋山義方父子と高野長英との交友は続きましたが、義方は失明して七十歳で没し、観音寺に葬られました。

原半左衛門胤敦

原半左衛門胤敦

 原半左衛門胤敦は享保18年(1733)八王子千人同心の千人頭の家に生まれ、安永5年(1776)家督を継ぎます。原半左衛門は天明の飢饉以来の国民の困窮を救い、かつ北方ロシアの侵略の脅威を防ぐため、新天地を蝦夷地に求め、幕府に集団移住を願い出るのでした。

 そして、認可を受けると寛政12年(1800)千人同心の子弟約100人 を率いて蝦夷地に渡り、十勝の白糠(シラヌカ)勇払(ユウフツ)に入植し開拓に従事したのでした。
 しかし、開拓は過酷な気候で病人、脱落者が相次ぎ難渋を極めます。
 そんな中、原胤敦は文化元年(1804)幕府の方針更で函館奉行の支配調役に任ぜられ函館に転出となるのです。
 しかし、指導者を失って孤立し、開拓は頓挫し、ついには引き揚げの憂き目となります。
 文化2年(1805)胤敦は八王子に大歓迎の中帰還しています。
 文化7年(1810)胤敦は幕府の命により「新編武蔵風土記稿」の編集事業に従事します。
 文化10年(1813)81歳で没しました。

佐藤彦五郎

佐藤松五郎

 佐藤彦五郎の天然理心流剣術道場を通して土方歳三・近藤勇・沖田総司らと 強い絆で結ばれ、結成時から新選組中核にあった井上源三郎の兄になるのが、井上松五郎です。

 井上松五郎は八王子千人同心として浪士組と同時期に上洛し、第二次長州征討にも従軍しましています。松五郎の日記や 書簡は、京都時代の新選組や八王子千人同心の内実を知る上で貴重な資料となっています。

 八王子千人同心が解体されるまで石坂弥次衛門の世話役(組頭の次の地位)を勤めました。
 慶応4年(1868)4月11日、井上松五郎は最後の日光勤番を終え「千人同心組頭:石坂弥次右衛門」が率いる約50名の隊員と共に八王子に帰還しました。

 その後、井上松五郎は350年の歴史がある日野の藁葺屋根の実家で農業を営むが、明治2年当時の流行病と思われる病気で逝去します。

井上源三郎

井上源三郎

 井上源三郎は文政12年(1829)、八王子千人同心を勤める井上家の三男として誕生、若くして日野宿金子橋にあった元八王子千人同心の日野嘉蔵義貴の寺子屋で学問を修めた。

 小さい頃から剣術を修練した井上源三郎は、弘化4年(1848)頃、兄の松五郎に伴われ、天然理心流の近藤周助に入門し、勇より先に万延元年(1860年)5月に天然理心流免許を受け取っています。

 文久3年(1863)2月、近藤勇、土方歳三、沖田総司等と共に「浪士組」に応募し、中山道を通って京都に入りました。
 同じ時、将軍家茂は東海道を通って京都に向かったが、この警護に八王子千人同心も加わり、その中には兄の井上松五郎もいました。

 「浪士組」は京都到着後江戸に帰国しますが、井上源三郎は近藤一統と共に京都に留まり、京都守護職会津藩主:松平容保公預かりの帝都治安部隊「新選組」に参加し、副長助勤・六番隊長となって隊士を率います。
 池田屋事件では、今まさに京都市内に火を放ち御所の天皇を拐おうとしている血気だった武装した8名を捕縛しています。
 これは天然理心流たる由縁であり、剣術ばかりでなく柔術や捕縛術にも精通していたことを示しています。

 新選組は、慶応4年(1868)1月3日「鳥羽伏見の戦い」に参戦するが幕府軍が敗退し、榎本武揚が率いる幕府の所有する軍艦で江戸に撤退します。
 この戦いで、出陣した新選組隊士の三分の二が戦死し、この時、井上源三郎は、味方は不利で大阪から引き揚げろという命令が出ているにもかかわらず少しも引かずに戦ったといいます。
 この際、敵の銃弾数発をうけ源三郎は戦死します。
 この時、わずか12才で新選組に参加していた兄の井上松五郎の次男井上泰助が、源三郎の首と刀を持って新選組隊士達と共に大阪へ退却します。
 しかし、戦いに疲れたうえ首と刀を持ってよろよろ歩く姿を見て、同行の隊士が、それでは追っ手に捕まってしまうから捨てろといわれ、仕方なく途中にあった寺の門前にそれを埋めたとされている。
 新選組というと近藤勇、土方歳三、沖田総司の名が挙がることが多いが、井上源三郎はこういった表舞台の人間達を裏で支え続けたもう一人の陰の最大の功労者ともいえるでしょう。

松本斗機蔵

松本斗機蔵

 鎖国をしていた江戸時代に海外諸国との交流の必要性を説いた八王子の「千人同心」がいました。松本斗機蔵(1795 ~1841)は千人同心としては最高の知識人で、彼の著書「献芹微衷(けんきんびちゅう)」では、海外事情の研究から海防の政策を提言しました。
 当時国交を開くことは国益を損するという鎖国状態の中で「海防を厳しくして、イギリス、ロシアと貿易せよ」 との彼の主張は注目すべき提言でした。
 18世紀後半、ロシアの接近を心配した幕府は、北方の警備を強化していました。
 
 こうした状況の中、千人同心の松本斗機蔵は、江戸の昌平黌で学び、海外事情に強い関心を持ち、八王子を訪れた北方探検家で有名な最上徳内と親交を温め、最新の情報を入手するなど、知識を深め、「献芹微衷(けんきんびちゅう)」という海防の提言書を書き、水戸の徳川斉昭に上覧を願ったといいます。
 渡辺崋山や江川太郎左衛門英龍とも親しく、「献芹微衷」を書いた際には江川に意見を求めたそうです。

 松本斗機蔵は、国防の大切さを訴えながらも和親外交を交易問題を具体的に提言。「西洋諸国と積極的に付きあうべき」というその主張は、当時の外交政策の一大転換を求めた注目すべきものでした。

 また、モリソン号が江戸湾(東京湾)に来航するとの情報を得た松本斗機蔵は、幕府に打ち払いの強硬策をやめるよう意見書を提出します。
 千人同心の組頭という地位でありながら、海外に視野を広げて見識を高め、幕府への提言を行った彼の業績は、特筆すべきものです。

塩野適斎

塩野適斎

 塩野適斎は千人同心組頭でしたが、文武両道に優れた達人です。

 安永4年(1775)千人同心組頭河西知礼の子として生まれ、同じく組頭の塩野家の養子となります。その後養父に代わって組頭となります。
 享和年間(1801~04)には、幕命により蝦夷地の経営にも携わります。
文政期から天保期にかけてまとめた桑都の地誌書は、八王子地方の歴史研究の第一級資料として評価は高いのですが、出版には至らなかったようです。

 また、幕命によって原胤敦や植田孟縉らとともに『新編武蔵風土記稿』の編纂に従事し、十数年かけて完成させています。これらのほかに「簗井県行記」「日光客中漫筆」「文敲」など多くの著書があります。弘化4年(1847)11月16日73歳で没します。

植田孟縉

植田孟縉

 植田孟縉は、宝暦七年(一七五七)に江戸で吉田藩医の子として生まれます。

 若くして八王子に移り、19歳のときに八王子千人同心植田家の養子となりました。
 八王子千人同心の組頭であった孟縉は、原胤敦や塩野適斎らともに江戸幕府編纂の『新編武蔵国風土記稿』の調査・執筆に携わったことで世に知られます。

 しかしながら、孟縉の業績としてまず挙げるべきものは、孟縉が独力で著作した「地誌三書」です。
 ここでいう「地誌三書」とは、武蔵国の国府・国分寺が置かれていた同国多摩郡全域について誌した『武蔵名勝図会』、近世徳川の聖地日光と中世日本の首都鎌倉というそれぞれの時代の東国を象徴する土地について撰した『日光山志』『鎌倉攬勝考』がそれにあたります。
 これらが評価され幕府から賞与を与えられています。孟縉にはこのほかにも『浅草寺舊蹟考』などいくつかの著作が知られているが、その代表作はなんといってもこの三書でしょう。
 また、孟縉は、江戸の文人墨客とも盛んに往来し、郷土においては多くの門人を指導し、天保14年(1843)、87歳で亡くなりました。

並木以寧

並木以寧

 以寧は、千人同心組頭で虎見良蔵といいました。
 医業を行うかたわら、私財を投じて元八王子に「養老畑」を設置しその利益を庶民の救済費に当てた医術をもって施療の努めた慈善家です。

 書道の弟子も多く、墓石には門弟500名余りと刻まれています。
 天保十五年、七十五歳にて死去。

 墓は臥牛の上に墓碑を載せた高さ二メートルの堂々たるもので、右側面には以寧の辞世の詩、左側面には法名が刻まれています。

新藤左右助

新藤左右助

 新藤左右助は10代目の千人同心の組頭で文久3年(1863)将軍家茂が上洛時に砲士として二条城を守ったとされています。
 また、江戸城無血開城がされる中、血気に流行る一部の千人同心は彰義隊などに呼応して江戸に集結しますが、「新藤左右助」もその一人でした。

 慶応4年(1868)5月15日大村益次郎の命令で大砲が威力を発揮し、黒門が破れ、彰義隊は一気に崩れ、間宮金八朗は戦死、左右助らは飯能に逃れて、新政府軍を迎え撃つことになります。

 やがて榎本武揚から指令が伝えられると、左右助は密かに一旦八王子の家に立ち寄り、「品川へ行く」と23歳、3カ月の身重の妻であるコトに伝え、立ち去ります。
 榎本武揚は開陽丸など軍艦4隻、咸臨丸など運送船4隻の合計8隻と伝習所以来の優秀な仲間、荒井郁之助など集め、全艦隊の総師となり脱走軍を組織化し、総勢約2000余名を集合し乗船させ品川沖を脱出、新天地蝦夷へ向かいます。

 しかし、江戸湾を出た後、台風に遭遇し、艦隊の一つ、「咸臨丸」は相模湾に漂い、清水港で停泊中に無抵抗の乗組員が36名が官軍に惨殺され、遺体は清水港に投げ捨てられ放置されることになります。
 一方では運送船「美賀保丸」は房総沖で暴風雨に遭遇、銚子で難破沈没し、溺死する者、捕縛され処刑される者など大勢の犠牲者が生れるのでした。
 「新藤左右助」も品川で、「美賀保」に乗船し、この惨事の中で消息を絶ちます。
 この大惨事で各地に死者を祭る顕彰碑や墓石が残されています。明治11年8月に八王子元横山町の大義寺に建立された「新藤左右助」の忠魂碑は勝海舟の題額です。

中島登

中島登

 中島登は天保九年に武州多摩郡小野田(現・八王子市西寺方)の千人同心の父・中島亦吉と母・イチの長男として生まれます。
 安政3年、19歳で天然理心流山本満次郎に入門、翌年同郷の安藤マスと結婚し長男歌吉・後の登一郎が生まれます。
 山本満次郎は、天然理心流2代目・近藤三助から学んだ増田蔵六の弟子にあたる人物で、近藤周助・勇親子の試衛館が剣術のみを教えていたのに対して、山本満次郎は、剣術、柔術、棒術の三術を教えていたとされています。

 父・亦吉の跡を継ぎ八王子千人同心として勤める千人同心時代に些細な喧嘩から同僚を斬り親戚を頼って逃亡する。

 元治元年、隊士募集のため江戸へ下向していた近藤勇に入隊を願い出るのですが、長男で妻子持ちのため断られます。
 その後、妻子とも別れ、天然理心流同門繋がりで、剣術、柔術、棒術の三術を駆使し、新選組の活動を助けるための武州・甲州・相模の情報探索の仕事にあたります。

 慶応三年、新撰組伍長に就任、鳥羽・伏見の戦い、甲陽鎮撫隊としての勝沼の戦いにも参加し、戊辰戦争の最前線で修羅場を潜り抜けます。

 慶応四年に流山で近藤が投降したとき、護送中の近藤を助けよう薩摩藩士有馬藤太を追尾するのですが警戒が厳しく諦め、以後土方歳三や島田魁らと行動を共にし、宇都宮、日光口の戦い、会津戦争と戦うことになります。
 この時、瀕死の重傷を負った彰義隊隊士・大鳥清慎を救護所まで運んだといわれています。函館戦争では弁天台場第2分隊嚮導役として活躍、明治二年に降伏投降し虜囚の身となります。

 一方で中島は絵心を持っていたことから、拘留中に仲間の一人一人の功績や戦死者に対する慰霊のため武者絵姿に描き、当事者が新選組を今日に伝える異色の隊士といえます。
 釈放後は,戦友の勧めもあって、浜松に生活の場を求めますが、妻子との別れの経緯があることから、決して故郷の武州多摩郡小田野(現八王子市西寺方町)に帰りませんでした。
 浜松では蘭作りに励み、明治17年、鉄砲火薬売買人の許可を得て中島銃砲店を始め大成します。
 明治20年、家訓に質屋、金貸しは孫子の代までするなと言い残し病没。享年五十歳。
 しかし、没後の亡骸も浜松に葬られ故郷に戻って来ることはありませんでした。
時代の波に飲み込まれ、悲劇のような最期を迎えた近藤や土方らとは違い、明治期においても成功を収めた数少ない新選組隊士といえるでしょう。

横田穂之助

横田穂之助

 横田穂之助は、福生に住んでいた数少ない千人同心の一人です。
 穂之助は江戸で医学を勉強し、福生村で医業を営む医師でもありました。文化11年(1814)、24歳で初めて勤番につき、文久3年(1863)の将軍家茂上洛のときには、鉄砲方四番小隊組頭として警護にあたりました。

 そして上洛中の出来事を「御上洛御供中日記」と題した日記に書き記しています。
 道中での出来事のほかに、京都見物や寺社参詣などの様子を記したこの日記は、現在福生市登録有形文化財となっています。

秋山幸太郎

秋山幸太郎

 安政元年(1854)神奈川条約で箱館の開港が決まると、蝶夷島を松前小藩に支配させてはおけないとして再び幕府の直轄として箱館奉行所を置きました。
 この時の箱館奉行は開墾興産を重んずる拓殖方針を打ち出し、開拓者誘致の方策と御手作場と称する半官半民経営の営農方式を実行するとともに勧農係を設け農事指導をも行ったのでした。

 開拓者誘致の方策として、安政2年(1855)幕府は旗本500石以下の者に蝶夷地在住、妻子同伴を許しました。
 これにより、翌安政3年(1856)と安政5年(1858)の2回にわたって八王子千人同心計40名が七重に移住しました。
 秋山幸太郎は、安政5年(1859)の15名の七重地方在住世話役頭取を務め38名の隊長格でした。

 七重に着いた一行は、河津三郎太郎が安政4年(1857)に開いた七重薬園附近などに農地を得て家屋を建設し農業に従事しました。
 七重薬園の当初の目的は松や杉などの苗木の育成と、幕府の用いる薬用植物の栽培でしたが、この薬園の管理と千人同心の指揮をあわせて行っていた農業指導者栗本鋤雲は、北地農業の適作物の発見と農家副業としての桑、楮(こうぞ)などを植え、機織や製紙などを行うことにしました。

 この、桑、楮の栽植には千人同心世話役の秋山幸太郎がよく働き、桑の成功は養蚕に結びついていき、千人同心は、開墾と養蚕・織物を主にした活動を始めました。

 箱館戦争の際には、函館府守備のため函館近郷の農民と七飯在住の千人同心関係者によって在住隊が組織されましたが、その主体は千人同心関係者でした。
 慶応4年(1868年)8月、秋山幸太郎以下32(38)名は新政府の函館府に府兵として採用され、鷲ノ木浜に上陸し箱館に向かって進撃してきた旧幕府軍に応戦し、死傷者を出しました。

 秋山幸太郎もこの戦いで、明治元年(1868)10月に亡くなっています。
 旧幕府軍には、土方歳三ほか新選組の面々、そしてこれに同調していた八王子千人同心もいたのです。
 同じ徳川を守ってきた旧幕府軍と八王子千人同心は、故郷から遠くはなれた蝦夷の地で、敵味方の立場に別れて戦わなければならなかったという悲劇がここにありました。

土方勇太郎

土方勇太郎

 土方勇太郎は、同じ姓の土方歳三より6年遅い天保12年(1841)浅川を挟んで石田村の向かいにある新井村(日野市新井)に八王子千人同心土方甚蔵の長男として生まれました。

 安政6年(1859)3月、土方歳三と共に天然理心流に入門した剣術仲間であり、土方歳三らが浪士組として上洛した文久3年(1863)には土方勇太郎も井上松五郎(源三郎の兄)と共に千人同心として将軍に随行し京都で歳三や源三郎に会っています。

 土方勇太郎は安政5年7月、父に代わって石坂弥次右衛門組千人同心となって以来、幕末の千人同心が経験した数々の出来事に遭遇し、遂に慶応4年(1868)の幕府瓦解の時を迎えるのでした。この時の勇太郎と松五郎は千人同心の主要任務である日光勤番に従事し、それが江戸幕府最後の日光勤番となりました。

 この時、新選組“鬼の副長”こと、土方歳三は慶応4(1868)年、戊辰戦争の激戦の最中にいました。
 4月23日、宇都宮城の北にある明神山の二荒山神社で、桑名藩兵らと大砲を指揮していましたが、援軍要請を受け、桑名藩一番隊とともに城内に入ります。
 そして竹林のある宇都宮城南門付近で激闘を続けるうちに、土方は小銃弾で足の指を負傷。歩行がままならなくなり、同じく負傷した会津藩士・秋月登之助とともに城外に搬出され、今市仮本陣に送られました。

 宇都宮城は同日夕、新政府軍に奪還されました。
 大鳥圭介率いる旧幕府軍は宇都宮城を捨て、200人近い負傷者を護送しながら今市に進軍しました。
 今市に到着した土方は、新選組隊士の中島登を日光に向かわせ、日光の警備についていた八王子千人同心の土方勇太郎を日光山千人詰所から呼び寄せます。

 土方歳三は宇都宮城で切り捨てた兵士について、「あの一兵卒は実に不憫である。どうかこれでこの日光へ、墓石の一つも建ててくれ」と目に涙をためながら金を渡して勇太郎に頼んだといいます。
 京都では「鬼の副長」と呼ばれた土方ですが、人間味のある素顔を垣間見ることができます。
 また、また勇太郎には「もう今度はとても帰れそうにない」と言い残し、同じく負傷した秋月と共に戦線離脱、会津西街道を北上するのです。
 その後、歳三は明治2年(1869)5月11日、新政府軍による、箱館総攻撃で35歳で戦死します。

勇太郎は帰還したのですが、明治3年12月、30歳の短い生涯を閉じるのでした。

小嶋文平

小嶋文平

 特に武勇伝があるわけではない八王子千人同心であった小嶋文平を有名にならしめたのは、『桑都日記』に彼に関する記述があることと、彼が書きあげた玉川上水の由来記が早くから三田村鳶魚の目にとまり、『安松金右衛門』を著したことで脚光を浴びたことによります。

 しかしながら、実は文平についての詳しい人物像は、野口村(現東村山市)にあった生家の資料が散逸してしまったために、墓碑などの資料に頼らざるをえず、詳細はわかっていないようです。

 『上水記』の完成後、12年を経た享和3年(1803)に『玉川上水起元』すなわち『玉川上水起元并野火留分水口之訳書』が、普請奉行佐橋長門守から老中松平伊豆守信明に提出されています。
 この書は、当時小嶋文平の「書状」をもとに、佐橋長門守が幕閣に答申した報告書の形を取っているのです。
 この書の中で、玉川上水開削にあたって2度の失敗があり、松平伊豆守信綱の家臣安松金右衛門が水盛(設計)をし直し、羽村からの工事を成功させたこと、また、この事により、伊豆守は、褒美として野火止用水を開削することが出来たこと等が述べられている。
 また、この『玉川上水起元』を元に、『安松金右衛門』を著した三田村鳶魚も、千人同心の末裔で、祖先が武田家家臣であったことを誇りとしていた。

飯田甚兵衛

飯田甚兵衛

 幕府は蝦夷地の開拓と警備にあたらせるため、志願者を募っていました。これに応じたのが、八王子千人同心たちでした。
 安政5年(1859)彼らの中から、秋山幸太郎をはじめとする15名が新天地に夢を馳せ、七重村に入植します。彼らは、水無とよばれていた今の桜町あたりや藤山に移住し、開墾と養蚕・織物を主にした活動を始めました。

 後に七飯町の町名由来のひとつとなる飯田甚兵衛は、八王子千人同心の組頭として七重に移住、農業養蚕を営み飯田村に発展、その後七重村と合併して七飯となります。
 宝琳寺境内の小さな地蔵堂に安置されている地蔵尊は、甚兵衛の寄贈したもので文久2年(1862)に逝去した母を供養するために作らせた地蔵尊です。
 背面に「勝正安政五午年十二月蝦夷地在住之蒙命北来之後七重村在住ス今年不幸而北堂逝ス因為菩提之作之」と彫られている。
 町名由来を知る資料として重要であり、また八王子千人同心の七飯村移住を記す歴史資料として貴重なため、平成3年に七飯町指定文化財に指定されました。