八王子城の地区構成八王子城の地区構成

八王子城の構造


八王子城の地区構成

 それでは、八王子城の地区構成につき見てみましょう。
 八王子城は城山の山頂部を頂点として作り上げられた戦いのための山城で、その地形的な特徴や、防御の方法を考えると、次の5つの地区から構成されます。その範囲は少なくとも、東西約2km、南北約1kmにおよんでいます。看板資料に従って各地区を説明します。

①城主、北条氏照の御主殿を中心とした「居館地区」(きょかんちく)

 居館地区は、城主である北条氏照の居館跡と考えられている曲輪を中心とした御主殿跡周辺、 居館や倉庫の存在が想定されているアシダ曲輪周辺がある場所です。

 看板資料によれば「城山川沿いの山腹に御主殿と呼ばれる大きな館跡と、その東側にアシダ曲輪と呼ばれる曲輪が残っています。御主殿跡は城主・北条氏照の居館跡とされ、アシダ曲輪は有力な家臣の屋敷跡と考えられています。御主殿跡の調査では、大きな建物の跡や石を敷いた通路、溝などが発見されており、庭園もあったようです」とあります。

②山頂曲輪を中心としそれを取りまく曲輪群などからなる「要害地区」

 氏照の居館・御主殿がある「居館地区」を政治的な中心地とするなら、戦闘時の最前線要塞となるのが背後の山上に築かれた「要害地区」となります。
 要害地区は、本丸跡やその周辺に松木曲輪や小宮曲輪などが配される城の中心にあたる本丸跡周辺、敵の侵入を防ぐために工夫がなされた尾根をひな壇状に造成する金子曲輪周辺、本丸の背後を警戒とともに、本丸が敵の攻撃を支え切れなくなったとき、最後の拠点となったと考えられる詰城周辺がある場所となります。

 標高460.4メートル地点に本丸が置かれ、その一段下の曲輪には、地名「八王子」の語源となった八王子神社があります。
 中腹の駐車場からは徒歩でのアプローチとなり、山麓の鳥居から八王子神社を目指し、登城道を30~40分ほど登れば本丸に到達することができます。

 「要害地区は、急な斜面で守られた城山山頂から尾根の上に造られています。山頂付近には本丸・松木・小宮曲輪があり、西側には詰の城と呼ばれる曲輪が残っています。合戦の時に籠城して戦うところで、兵糧の入れる倉庫などが建てられていたと思われます。今でも2ヶ所に当時の井戸が残されています。」(看板資料より)
 「詰の城」は、主城部分の背後を守る敵の正面に構築されたまさに前線ととらえられているようです。

 山上の「要害地区」は本丸を中心とした「主城部分」だけではなく、「伝大天守部分」と呼ばれるエリアが、「馬冷(こまびや)し」と呼ばれる大堀切を挟み、西側の尾根に構築されています。
 最高所の標高は約479メートルと本丸より高く、石積みで囲まれた多角形の堡塁になっていますが、「伝大天守部分」と呼ばれるものの、一般に考えられる天守があったわけではなさそうです。

 それにしても研究者が驚くのは、この最高所である堡塁から南北に各約300メート八王子城石垣ルの石塁が構築されていることです。総延長約600メートルの石塁で尾根上に防壁をつくり、主城部分を囲い込んでいるのです。

 八王子城の攻防戦では本丸は横地監物吉信が、松木曲輪は中山勘解由家範が、小宮曲輪は狩野一庵が守備していました。管理棟から要害地区への途中にも曲輪が点在し、金子丸は金子三郎左衛門家重が守備していました。

③家臣団の居住区である「根小屋地区

 根小屋地区は、八王子城が築城された城山の東側の麓に広がる城下町で、宗関寺(横地監物館)辺りから城山川の沿って八王子城の駐車場までの一帯に家臣団の屋敷があったようです。大部分は八王子城のガイダンス施設のあるあたりでしょうか。城への大手口として城下町の一部を形成していたと思われます。
 掲示資料によれば「城山川に沿った、中宿付近が根小屋地区と呼ばれ、城への大手口として城下町の一部を形成していたと思われます。また、城山川の南側には細い尾根に連続して曲輪と堀切が並び、太鼓曲輪と呼ばれています。その他、小田野の曲輪群や、恩方方面の搦手口にも多くの遺構があり、城全体の守りを固めていたと思われます。」
 根小屋地区には、屋敷の区割りを示す溝状遺構や城山川沿いの道路状遺構、建物跡や井戸跡などとともに、陶磁器類の遺物も出土しています。
 
 なお、この地区には横地監物の屋敷跡とされる場所があります。それは、現在、宗閑寺がある場所で八王子城が攻められた際の最初の防衛施設でもあったようです。宗閑寺は、もともと北条氏照の墓がある北西にあったようですが、明治25年に現在の場所に移転しました。

④城山川の東南部に連なる尾根の太鼓曲輪地区

 太鼓曲輪地区は、要害部から御主殿地区を挟んで城山川の対岸に対峙する尾根にあります。
 曲輪群といっても居住空間や駐屯地としてスペースを確保するものではなく、尾根そのものを城を囲む防衛線とするような構造といえそうです。
 太鼓曲輪群は、5条の深い堀切で区切られた曲輪が南からの敵の侵入に備えているもので、居館・要害区域ほど整備されていないが、5条の堀切はどれも見応えのある遺構です。
 八王子城のような山城を構成する上で尾根づたいに敵が進撃するのを防ぐ役割を果たしています。
 各堀切りは、420余年の歳月を経ても土砂に埋もれることもなく当時の削りとられたままの姿を残しています。
 

⑤太鼓曲輪のさらに南麓の防御に機能した御霊谷(ごれいや)地区

 太鼓曲輪の東端と南側の台地に位置していて、城域の東南端を画しています。試掘調査により、八王子城の南側の備えとして防御用の施設の存在が確認されています。
 前川實氏の著作「決戦!八王子城 直江兼続の見た名城の最期と北条氏照」には「出羽山砦を破り、廿里(とどり)谷戸に到着した上杉景勝率いる大手脇軍勢は御霊谷に突入した」と記載があります。
 「上杉景勝率いる軍勢は御霊谷に突入したが、城内に造られた戦略深田に足を取られ身動きできなくなり、右手の「上の山砦群」からの横矢がかりで狙われ、多くの兵士が落命した。これを見た上杉景勝は上の山砦を攻めて落とし、尾根端の番屋曲輪を占領。太鼓曲輪に迫った。」



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八王子城訪ね歩き

WEBサイト八王子城訪ね歩きは、高尾通信事務局で収集、WEBサイト「高尾通信」で公開していた八王子城に関わる情報を独立したWEBサイトとして分離、整理したものです。

八王子城トピックス

 八王子城は、関東の西に位置する軍事上の拠点で、北条氏康の三男・氏照が1571年(元亀2年)頃より築城し、1587年(天正15年)頃に本拠としたとされています。しかし、近年の研究では、元亀段階には小規模な城砦みたいなものが存在した可能性はあるものの、本格的な築城は1578年(天正6年)とみる説が有力であるとされています。

 八王子城は、その地形的条件を生かした堅固な防御態勢が整えられていました。城は、高台に位置し、周囲を深い堀や石垣で囲まれていました。主郭や二の丸、三の丸などの曲輪が配置され、それぞれに櫓や門が設けられていました。

 また、八王子城は、その戦略的な位置と堅固な防御態勢から、相模国の中心的な城として機能しました。また、周辺地域の支配を固めるために、城下町が形成され、城の周囲には商業や手工業が発展しました。

 しかし、1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、北条氏一族は豊臣軍に敗れ、氏康は降伏しました。八王子城も豊臣方の上杉景勝・前田利家・真田昌幸らに攻められ、激しい戦闘の末、城は1日にして落城しました。

 また、八王子城の落城にまつわる伝説もあります。豊臣秀吉による小田原攻めの際、八王子城の戦いで、城内の女性が戦いの敗北を覚悟し、御主殿の滝に身を投げ自殺したという伝説や、八王子城の戦いの際に三日間、近くの城山川が赤色(血)に染まったという伝説があります。

 現在、八王子城は国の史跡や日本100名城に選ばれ、発掘調査や整備も進み、御主殿跡付近の石垣、虎口、曳橋などが復元されています。城跡は公園として整備され、歴史ファンや観光客にとって訪れる価値のある場所となっています。