八王子城の構造
八王子城が建てられたとされる近世においては、多くの城が平地を利用した平山城、平城が主流でしたが、八王子城は、関東平野の西端で八王子城山・富士見台山塊がせり出した突端の深沢山(標高460m)を利用して築かれた戦国時代の代表的な山城です。
自然の地形を利用した要塞と言う役割の強い山城の築城は時代の潮流とは逆行したように思えますが、この城の築城の理由には、北条氏がそれ程までに守りを重視していたと言う歴史的背景があるといわれています。
八王子城は、深沢山(城山)山頂に本丸を置き、周辺に延びる尾根や細かく入り組んだ谷、麓の平地など、自然の地形を利用して築かれています。その構成は、本丸、松本曲輪(くるわ)、小宮曲輪、御主殿曲輪などを持つ城山と城山川の流れる谷を隔てた東の太鼓曲に大別できます。
なお、そびえたつ天守閣をもつ城郭は江戸時代の初期に構築されたものがほとんどですが、八王子城は戦国時代の山城なのでもともと天守閣は存在しません。
規模は広大で城全体の利用計画も複雑、築城にはかなりの年月をかけたと思われます。
また、間宮若狭守綱信は、天正8年(1580)に安土城の織田信長を北条氏照の使者として訪問している記録が残っており、このことは八王子城が、安土城をモデルとして築城されたのではという説もあるようです。
また、城下町には、武家屋敷のある中宿、刀剣鍛冶職人の居住区である鍛冶屋村に加え、滝山城下から移転した商業地区の八日市、横山、八幡といった3つの宿場があった。
氏照は、この強固な八王子城の完成をまって移転する心づもりでだったのでしょうが、結果的に八王子城は、未完成のまま天正18年に落城を迎えることになります。
この八王子城の落城は、小田原城籠城中の氏政、氏直父子に降伏を決意させるに至り、この戦いにより、秀吉は関八州を平定するとともに、伊達政宗をはじめとする奥州の諸大名を屈服させて、天下統一を果たすことになります。
なお、落城後は江戸幕府による直轄領、明治期以降の国有林、史跡や保安林等の法規制の運用など、時代を経る中で環境が保全されたため、築城当時の様相がよくとどめられています。
八王子城が築城された中世後期は、天守をはじめとする建築面での発展、縄張りの発展、石垣の利用開始など、歴史的な過渡期の築城技術が変化する中にあり、八王子城はそのような時代背景の一時期に築かれた山城として、城郭の規模・構造や、建物などを建てた曲輪の跡、石垣や堀切、土塁や通路の跡など、城郭の築城技術を色濃く残す城郭遺構が良好な状態をとどめています。
八王子城跡は、全国的にみても、これら戦国時代の遺構をよく残す代表的な山城跡といえるでしょう。
「決戦!八王子城―直江兼続の見た名城の最期と北条氏照」 (揺籃社ブックレット 6)
「八王子城―みる・きく・あるく」 (揺籃社ブックレット 4)
「乱世!八王子城」 揺籃社 山岩淳
「発掘された八王子城」 八王子市郷土資料館 八王子市教育委員会
「巨大山城八王子城精密ル-トマップ 戦国浪漫 2016年版」揺籃社 堀籠隆
「戦国の終わりを告げた城 : 八王子城を探る」六興 椚国男
「八王子城今昔物語絵図」 揺籃社 前川実