八王子城築城の経緯
北条氏照は早くから自分の居城を八王子へ移したかったようです。それではなぜ氏照はそうしたかったのでしょうか。
1. 経済的・宗教的中心地としての魅力
まず、八王子が持つ経済的・宗教的魅力というものが、氏照がこの地を居城として選んだ重要な要因といえるでしょう。
(1)経済的繁栄
「二十日市場(はつかいちば)」を中心とした商業活動の活発さは、氏照が新たな拠点に求める経済的基盤として魅力的でした。
「二十日市場」とは、その名の通り毎月20日に開催されていた定期市のことです。当時の定期市は、都市や交通の要衝において、特定の日を決めて開かれる商業活動の場でした。常設の店舗だけでなく、遠方からも商人や農民が集まり、様々な品物の売買が行われました。
八王子における「二十日市場」は、現在のJR八王子駅周辺、特に現在の甲州街道(旧甲州道中)沿いに位置していたと考えられています。
具体的な場所については諸説ありますが、八王子宿の中心部にあったことは間違いありません。
領国の安定と発展には、物資の流通と経済活動の活性化が不可欠であり、八王子はまさにその要件を満たしていました。滝山城が多摩川を主要な交通路としていたのに対し、八王子はより広域な陸上交通路の結節点であり、経済的ポテンシャルは比較にならないほど高かったと言えます。
そして、この市場が果たしていた役割は、単なる物資の交換の場にとどまりませんでした。
というのも近隣の農村部で生産された農産物、山間部で採れる木材や炭、さらに遠方から運ばれる加工品や奢侈品など、多様な物資が集積し、そして各地へと流通していきました。
特に八王子は、多摩地域と武蔵、甲斐、相模を結ぶ交通の要衝であったため、その地理的優位性を活かして、広範囲からの物資が集まる一大拠点となっていました。
また、商人は各地の情報を運び、市場は人々の交流の場でもありました。経済情報はもちろんのこと、政治情勢や世間の噂なども飛び交い、地域の情報ハブとしての役割も果たしていました。
加えて市場の存在は、周辺地域の生産活動を刺激し、地域全体の経済を活性化させました。生産者は市場で換金することで新たな物資を調達でき、消費者は多様な品物の中から必要なものを手に入れることができました。
このように北条氏照が八王子城に居城を移した際に「二十日市場」を重要視した背景には、彼の経済に対する深い理解があったと考えられます。
というのも戦国大名にとって、領国の経済的基盤の強化は、軍事力を維持し、さらには拡大していく上で不可欠な要素でした。
市場から得られる商業税(市座銭など)は、貴重な財源となります。氏照は、この活発な「二十日市場」からの税収を重視し、軍事費や領国経営の安定化を図ろうとしたと推測されます。
また、経済活動の中心地を押さえることは、領国支配をより強固なものにする上でも重要でした。
活発な市場がある場所は、人々が集まる場所でもあり、領主の権威を示す上でも効果的です。
氏照は、八王子を単なる軍事拠点としてだけでなく、経済活動の中心地としても位置づけることで、より効率的で安定した領国支配を目指したと考えられます。
そして、氏照が市場の重要性を認識していたからこそ、市場の保護や振興にも力を入れた可能性があります。市場が荒廃すれば経済活動が停滞し、ひいては領国の疲弊につながるため、大名が市場の保護に乗り出すことは、当時の常套手段でした。具体的な史料は少ないものの、氏照が八王子を拠点とすることで、この地の商業活動をさらに発展させようとした意図は十分に考えられます。
(2)宗教的権威の活用
宝生寺や高尾山薬王院といった伝統的な寺社は、単なる信仰の場に留まらず、広域からの参詣者を集めることで経済的な潤いをもたらし、また、その権威は地域の支配者にとって統治の正当性を補完する役割も果たしました。
氏照がこれらの聖地を自らの本拠地とすることで、地域の民衆に対する求心力を高めようとしたことは想像に難くありません。
というのも高尾山薬王院は、古くから修験道の霊場として関東一円にその名を知られていました。
また、宝生寺も八王子地域における有力な寺院として、多くの人々の信仰を集めていました。人々は、病気平癒、家内安全、商売繁盛などを願い、遠方からもこれらの寺社へと足を運びました。
多くの参詣者が訪れることで、自然と寺社の門前には茶店や宿屋、土産物屋などが軒を連ね、いわゆる「門前町」が形成されました。
これらの門前町では、飲食や宿泊、物資の売買が行われ、活発な経済活動が展開されました。これは、先に述べた「二十日市場」とも連携し、八王子地域の経済的繁栄を一層加速させる要因となりました。
参詣者は、道中の安全を願うために現地の宿場に泊まり、食事をとり、土産物を購入します。これらの消費行動は、その地域の経済に直接的な潤いをもたらします。
信仰心篤い人々からの寄進も、寺社にとって重要な収入源でした。
寺社は、これらの寄進された財産を元手に、土地の開墾や新たな建物の建立などを行い、自己の経済基盤を強化しました。その結果、寺社自体が地域経済の一翼を担う存在となっていきました。
北条氏照が八王子に居城を移す際、これらの門前町で発生する商業活動からの税収や、寺社が保有する経済力を自身の統治に組み込むことを企図した可能性は十分にあります。寺社を通して、間接的に経済的な恩恵を得る構造を構築することは、当時の大名がよく用いた統治手法の一つでした。
次に、これらの寺社が持つ精神的、政治的な権威が、氏照の統治にどのように寄与したのかということは興味深いものです。
古来より、人々は自然や神仏に対して畏敬の念を抱き、寺社は地域の精神的支柱となっていました。戦国時代のような不安定な時代において、人々はより一層、寺社に心の安寧を求めたことでしょう。
大名が有力な寺社を庇護し、その復興や維持に協力することは、領民からの支持を得る上で非常に有効な手段でした。
寺社を保護することは、領主が信仰心篤い人物であるというイメージを確立し、民衆に安心感を与える効果がありました。
氏照が宝生寺や高尾山薬王院を庇護し、寄進を行うことで、これらの寺社は氏照を「信仰の篤い守護者」として認識し、積極的にその存在を民衆に伝播したと考えられます。
氏照が八王子を本拠地とすることは、これらの「聖地」を自らの支配下に置くことを意味しました。
これにより、彼は単なる武力による支配者ではなく、神仏の加護を受けた正当な統治者としての権威を民衆に示すことができました。
特に、高尾山薬王院は修験道の一大拠点であり、その影響力は広範囲に及びました。
氏照が薬王院を掌握することは、関東における精神的な影響力をも掌握することに繋がり、自身の支配を宗教的な側面からも強化する狙いがあったと言えます。
信仰を通じて人々を結びつける寺社の力は、大名にとって領民の統制と秩序維持に貢献するものでした。氏照がこれらの寺社を重視し、自らの本拠地に隣接させることで、地域の民衆に対する求心力を高め、その統治をよりスムーズに進めることができたと想像されます。寺社の持つネットワークや組織力も、氏照の情報収集や領内統制に活用された可能性も指摘できます。
2. 軍事的要衝としての重要性
次に、軍事的な重要性についても専門家の考察は非常に重要です。
八王子はまさに戦略上の要衝であり、氏照が居城を移した最大の理由の一つと言えるでしょう。
鎌倉街道や甲州への街道が集中する交通の要衝であることは、軍事的な観点から見ても非常に有利です。これは、領国を広範囲に掌握し、有事の際には迅速に兵を展開できることを意味します。また、敵の侵攻路を抑える上でも極めて重要な拠点でした。
北条氏照が八王子城に居城を移した最大の動機として、永禄12年(1569年)の武田信玄による小田原攻めにおける「十十里合戦」での苦い経験が挙げられることでしょう。この戦いが氏照に与えた衝撃と、そこから導き出された八王子城築城への着想についてお話しします。
永禄12年、甲斐の武田信玄は、長年の宿敵である北条氏康・氏政父子の本拠地である小田原城への大規模な侵攻を開始しました。いわゆる「三増峠の戦い」の前哨戦とも言えるこの小田原攻めは、武田軍の戦略的な巧みさが際立つものでした。
この時、氏照は父・氏康から本拠地である小田原城の北方を守る要衝、滝山城の守備を任されていました。滝山城は、多摩川と秋川に挟まれた丘陵に築かれた典型的な平山城であり、自然の地形を巧みに利用した堅固な城郭として知られていました。特に多摩川に面した側は、天然の要害として敵の侵攻を阻む役割を果たすはずでした。
しかし、武田信玄は、一般的な攻撃ルートではない「裏」からの侵攻を計画しました。その標的となったのが、滝山城の南方約10キロメートルに位置する小仏峠でした。
武田軍の一部隊は、この小仏峠を越えて多摩川上流方面から八王子方面へと侵入しました。彼らの目的は、滝山城の「裏手」に回り込み、不意を突くことにありました。
小仏峠を越えた武田軍は、現在の八王子城の南方に位置する十十里山(とどりやま)と呼ばれる丘陵地帯で、氏照が防衛のために配置していた部隊と激突しました。これが「十十里合戦」です。
『甲陽軍鑑』などの軍記物によれば、武田軍は地の利を活かし、氏照軍を打ち破り、十十里山を突破することに成功したとされています。この敗戦により、滝山城の南方からの防御ラインは崩壊し、武田軍は城の目前にまで迫ることとなりました。
十十里合戦での敗北は、氏照にとって想像を絶する衝撃でした。
なぜなら、滝山城が天然の要害である多摩川を背にしているという安心感が打ち砕かれたからです。
武田軍は、誰もが予想しなかった裏からの攻撃を成功させ、滝山城は落城寸前の危機に瀕しました。
幸い、小田原攻め全体の戦略的判断により、信玄は滝山城を完全に落とすことなく撤退しましたが、氏照はこの時の苦い経験を深く胸に刻んだはずです。
十十里合戦での敗戦は、氏照に以下の重要な教訓を与えました。
まず、滝山城のような平山城は、周囲の交通路を監視し、ある程度の防御力は持っているものの、広範囲にわたる多方面からの攻撃に対しては脆弱であること。特に、本拠地の背後や側面の防御が手薄になるリスクがあること。
そして、自然の地形を最大限に利用し、山全体を要塞化する「山城」の必要性。
これにより、広大な防御範囲を確保し、複数の方面からの同時攻撃にも耐えうる堅固な城郭を築くことの重要性。
加えて十十里合戦で武田軍が侵入してきた小仏峠が、八王子地域のまさに玄関口であったこと。この交通の要衝を完全に掌握し、強固な防御拠点とすることが、今後の領国防衛において不可欠であること。
この痛烈な経験を経て、氏照は滝山城に代わる新たな居城の候補地を模索し始めました。
その結果、十十里山を含む八王子一帯が、まさに理想的な立地であると結論付けたのです。
八王子は、小仏峠をはじめとする甲州方面からの交通路を見下ろし、広大な山々を利用して幾重にも防御線を構築することが可能でした。
十十里山での敗戦を教訓に、氏は照はこの一帯全体を要塞化する構想を練ったと思われます。
氏照が選択した八王子城の場所は、周囲を峻険な山々に囲まれ、自然の地形がそのまま城郭の一部となるような、まさに山城として理想的な場所でした。
滝山城のような平山城では、城郭本体の防御力を高めることしかできませんでしたが、八王子城では、城郭本体だけでなく、周囲の尾根や谷、さらには山麓に至るまで、広範囲にわたって曲輪、堀切、土塁などを築き、山全体を巨大な要塞として機能させることを目指しました。
これにより、どこから敵が侵入してきても、幾重もの防御線で迎え撃つことが可能となり、十十里合戦で経験したような「裏」からの奇襲を防ぎ、多方面からの攻撃にも対応できる堅牢な防御体制を確立しようとしたのです。
「十十里合戦」は、北条氏照に従来の城郭では対応しきれない新たな戦術、特に「裏からの奇襲」という脅威を突きつけました。
この苦い経験は、氏照をしてより広範囲で強固な防御が可能な山城、すなわち八王子城の築城へと駆り立てる決定的な要因となりました。八王子城は、単なる居城の移転ではなく、氏照が戦国の厳しい現実から学び、未来を見据えて築き上げた、北条氏の軍事戦略の集大成とも言える存在であったと評価できるでしょう。
3. 氏照の戦略的視野と未来志向
これらの要因に加え、氏照自身の戦略的な視野も八王子城への移転を後押ししたと推察されます。
彼は単に目先の防御を強化するだけでなく、将来的な北条氏の勢力拡大を見据えていたのではないでしょうか。
滝山城は多摩川と秋川の合流点に位置し、防御には優れていました。
しかし、北条氏の支配領域が相模、武蔵、さらに関東各地へと拡大していくにつれ、滝山城は次第にその地理的中心から外れていきました。
広大な領国を効率的に統治し、各地への兵力展開や情報伝達を迅速に行うためには、より中央に位置する拠点の必要性が高まっていました。
一方、八王子城は、武蔵国の中央部に位置し、甲斐、信濃、上野、相模など主要な国々への交通の要衝でもありました。
この立地は、領国内の統治だけでなく、他国との交渉や情報収集、そして将来的な勢力拡大を見据えた軍事行動においても、滝山城よりもはるかに有利でした。
氏照は、八王子城を新たな北条氏の関東支配の「中枢」として位置づけ、領国経営全体の効率化を図ろうとしたと考えられます。
氏照は、単に現状維持を目指すのではなく、北条氏のさらなる発展と勢力拡大を視野に入れていたでしょう。
八王子城の築城は、将来的に上野方面や甲斐方面への進出を計画する上で、兵站基地や前線基地としての役割も担うことを想定していた可能性があります。
より大規模な軍勢を動員し、広範囲な作戦を展開するためには、それに耐えうる規模と機能を持つ拠点が必要でした。
八王子城の巨大な規模と堅固な構造は、北条氏の来るべき覇権を象徴するものでもあったと言えます。
また、戦国末期という時代背景も、八王子城築城に大きな影響を与えています。
戦国初期から中期にかけて主流であった平山城(比高差の少ない山や丘に築かれた城)は、大規模な軍勢による総攻撃や、大筒(大砲)などの新兵器の登場によって、防御の限界が見え始めていました。
豊臣秀吉による天下統一が進む中で、各地の大名たちはより強固な防御力を備えた大規模な城郭を築くようになりました。
石垣の多用、複雑な曲輪配置、多重の堀、そして巨大な天守や櫓などがその特徴です。八王子城は、まさにこうした時代の要請に応える形で、北条氏が持つ最先端の築城技術と知見が結集された「山城」でした。
自然の地形を最大限に活用しつつ、堅固な石垣や複雑な虎口(出入り口)構造を組み合わせることで、難攻不落の城を築こうとしたのです。これは、氏照が最新の軍事技術や築城トレンドを熟知し、それを取り入れる柔軟性を持っていたことを示唆しています。
来るべき豊臣秀吉との対決を予見していたかどうかは定かではありませんが、この時期、秀吉による天下統一の動きは誰の目にも明らかでした。
小田原北条氏も、いずれは秀吉と対峙することになるだろうという危機感は抱いていたはずです。
八王子城の築城は、北条氏の関東における最後の防衛線、あるいは最終的な本拠地となりうる城として、秀吉の大軍を迎え撃つための準備であった可能性は非常に高いです。
小田原城が西の防御の要であるとすれば、八王子城は関東内陸部、特に多摩地域を守る重要な拠点であり、万が一小田原が突破された場合の最終拠点、またはそこから反攻するための拠点としての役割も期待されていたかもしれません。
氏照は、天下統一を進める強力な中央政権(豊臣秀吉)の登場を意識し、それに対抗しうるだけの規模と防御力を持つ本拠地を築く必要性を痛感していたと考えられます。
八王子城は、北条氏の独立性と関東支配の意思を示す、最後の砦となるべく築かれたと言えるでしょう。
以上のことから、北条氏照の八王子城への移転は、単なる緊急避難的な措置ではなく、北条氏の長期的な戦略と、当時の戦国末期における軍事・政治情勢を見据えた、極めて計画的かつ先見性のある判断であったと結論付けることができます。
このように、北条氏照が八王子城に居城を移した理由は、単一の要因ではなく、経済的・宗教的な魅力、十十里合戦の苦い経験から得た軍事的な教訓、そして氏照自身の戦略的な視野が複合的に絡み合った結果であると言えます。
特に、十十里合戦で露呈した滝山城の脆弱性を克服し、より広範囲の防御が可能な新たな堅城を築く必要性が、八王子城築城の最も直接的な動機となったことは間違いありません。
八王子城は、氏照が北条氏の関東支配を盤石なものとし、来るべき戦乱の時代を乗り越えようとした彼の意志の象徴であったと考えられます。