浄福寺城浄福寺城

浄福寺城


 浄福寺城は、東京都八王子市の西部にあたる下恩方町にある標高356・4m、比高160mの千手山の尾根沿いに築かれた山城である。その南には、八王子城という北条氏創築の大城郭があるため目立たない存在になっているが、八王子城ができるまでは、甲斐国から関東平野に出るための重要ルートだった北浅川沿いの古案下道(陣馬街道)を扼する重要な城だった。 
 JR高尾駅北口から「陣場高原」行きのバスに乗り、松竹という停留所で下車。西へ少し歩いて陣馬街道の中程、圏央道の下をくぐると間もなく浄福寺があり、城は寺の裏手の山上にある。車で行く場合は、寺の駐車場をお借りすると良い。

 静寂な中に佇む千手山浄福寺は古くより教線を遠く甲州にまで及ぼした古刹です。
 古くは寺号を千手山普門院城福寺と称したが江戸後期に浄福寺と改めたという。草創は文永年間(1264~1274)広恵上人によると伝えられる。

 大永5年(1525)大石道俊及び憲重父子が大檀那となり、長尊により再興されました。(ただし、その前年、1524年12月14日に浄福寺城は、山内・上杉憲政勢によって落城し、大石道俊・大石憲重は小田原城まで逃げたと、新編武蔵風土記稿に記載されています。)

 天正19年(1591)11月、浄福寺は徳川家に認められて、御朱印十石を賜り、境内11,400坪を有したといわれ、八王子、山梨にまたがって末寺15ヶ寺を擁したと言います。

 さて、城へはこの浄福寺の脇の新城登り口の案内板から墓地を通り、祠の前を通って山道に入ります。墓地を抜けて、石造の観音様が並ぶ観音堂への参道を登ると山頂の主郭に辿り着きます。
 この浄福寺裏山一帯が、標高360m,比高150mの山城で,新城(にいじょう)・案下城(あんげじょう)・松竹城(まつたけじょう)・千手山城(せんじゅさんじょう)と様々の呼び名を持つ浄福寺城の城跡なのです。
 『武蔵名勝図会』には「松嶽といふ所に城跡あり。現在は松竹と呼ぶ」などといった記述があり、松竹城というのはそこから来ているようです。
 また、案下城というのは、下を通っている案下古道(陣場街道)からきているようです。
 千手山城というのは、尾根が何本も延びている山の形状にちなんだものでしょうが、ここに祀られている千手観音とも関連があるのでしょうか。千手観音様は秘仏で毎年4月17日だけのご開帳だそうです。なお、この寺に伝わる文書によれば,この寺はもともと「城福寺」といっていたそうです。城の構築方法を滝山城などと比較すると、浄福寺城が古いと考えられています。

 前述のように南には、八王子城という北条氏創築の大城郭があるため、あまり話題になりませんが、八王子城が築城されるまでは、甲斐国から関東平野に出るための重要ルートだった北浅川沿いの古案下道(陣馬街道)を扼する重要な城だといえます。観音堂まで上がって見ると、すぐ南側には八王子城がよく見えるので、八王子城の築城後についても、その北側を守る出城・支城として機能していたのでしょう。

 昭和59年(1984)2月に行われた調査で、郭・土塁・切掘・土橋などが確認されました。中世城郭として,また大石氏の経緯を知る上にも貴重な城跡です。
 もっとも小曲輪、堀切から竪堀、畝堀など、良好な形でよく残っており、中世の山城、北条流の縄張りを研究したい人には手頃に登れる山城ですが、史跡としての整備がなされている訳ではありません。
 
 城主郭部は千手山(356.4メートル)一帯で、寺は城主の居館跡ではないかと言われています。
 城の築城については諸説があり、明らかではありませんが『新編武蔵国風土記稿』では、“大石源左衛門尉入道道俊と云もの当所に居城を構へし”とあり、大石定久の築城を思わせる記述があります。
 大石氏は,系図(山木伊藤家伝)によれば,木曽義仲の後裔が信濃国大石郷に住んでいたが,延文元年(1356)入間,多摩に十三郷を得て多摩に移住し,次第に大豪族となり城を移したといわれます。

 14世紀末期に武蔵守護職にして関東管領の山内上杉能憲の守護代として活躍します。
 この時の当主の憲重は武蔵・下総両国の守護代を務めるなどして、その権勢は、同じく上野国の守護代を務めていた白井長尾氏と並び立つものでした。

 大永7年(1527)上杉憲政は体制離反者大石氏への制裁のため松竹城を攻撃します。不意を突かれた大石方は、城兵のほとんどが討ち死にしたと伝えられます。

 1545年、定久は山内上杉氏の重臣であったが、北条氏康が河越城の戦い(河越夜戦)で、主家である扇谷上杉家・上杉朝定が討死すると、大石定久は北条家(北條家)に屈服します。
 主家である山内上杉氏の大敗北を目の当りにした大石氏は、新旧勢力の移りを認めざるを得ずその結果、北条氏康の三男(実質次男)の藤菊丸(のちの北条氏照)を養子に迎え、大石の家督を継承する形で、北条氏の傘下に入ったわけです。

 大石氏家督を譲り受けた氏照は養子先の由井源三(ゆいげんぞう)と名乗り滝山城に入り、家督を譲った大石憲重(おおいしのりしげ)は浄福寺城に移ったと言われています。(但し当城は由井城とも呼ばれた理由で氏照が最初に入城したのは浄福寺城との説もあります)
 その後、軍事面で頭角を現した氏照は、北条氏政の片腕として辣腕を振るい、豊臣氏と軋轢が生じた折も、常に強硬論を唱えて決戦を主張したため、小田原合戦が終わった後、氏政と共に切腹しています。
 
 いずれにしても、浄福寺城は、八王子城の北方にあり、搦め手の恩方谷や甲斐へと通ずる陣馬街道を一望することができるわけですから、この方面からの侵入に対する監視・抵抗の拠点として、重要な役割を果たしていたと考えられます。

 1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際には、八王子城の出城としては最大級の規模を誇りましたが、八王子城の落城とともに浄福寺城も落城し廃城となった模様です。

 ただし、八王子落城の時にここで戦闘が行われたかは定かでないようです。 八王子城合戦の際には、氏照が主力勢を率いて小田原城に入っていたこともあり、残る兵力では八王子城を守るのに精いっぱいで、「捨て城」とされたのかもしれません。

 捨て城とは、あまりに不運な言い方ですが、それはこの城の構造上の特徴からもうかがえるといいます。
 この城は、五筋からなる尾根を細かく掘り切った上で、ここに狭小な曲輪を段状に造り、遮断に徹している構造をとっています。言い換えると、尾根伝いに攻め込んでくる敵に対し、狭い尾根筋を使い巧みに防御し、攻め込まれてくれば、順次、曲輪を捨てて後方に下がっていくという防御策がとれるのです。いわば積極的に撃って出るといった攻撃に有効な構造ではなく、徐々に山頂まで後退する防御に適した構造ということでしょう。つまりは、浄福寺城は「守り抜く」ことを目的としたものではなく、「時間を稼いで外部からの救援を待つ」という構想の下に造られた城ということであり、八王子城からの後詰を待つ構造ということでしょう。
 こういったことから、築城については二宮から本城を移したと言うより分家(支城)と考えたほうがよいようです。

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以下、現地説明板より
市指定史跡 浄福寺城跡(新城)

所在地 八王子市下恩方町三二五九
指定年月日 昭和四十七年一月二十七日

 浄福寺城は、新城とも呼ばれ至徳元年(一三八四)大石信重開城の案下城(大石系図)と考えられている。
 大石氏は、系図(由木伊藤家伝)によれば木曽義仲の後裔が信濃国大石郷に住んでいたが、延文元年(一三五六)入間、多摩に十三郷を得て多摩に移住し、秋多町の二宮から案下城、高月城(長禄二年)滝山城(大永元年)と次第に大豪族となり城を移したといわれる。

 現在の浄福寺の境域および後山には多くの遺構が見られ、中世城郭として、また大石氏の経緯を知るうえにも貴重な城跡である。

昭和五十三年二月三十一日
八王子市教育委員会



 

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八王子の名城「八王子城」「滝山城」は令和4年2月11日、登城記念として「御城印」の販売を開始した。御城印の販売は、桑都日本遺産センター八王子博物館のみの取扱となっている。一人各1枚まで購入することができる。購入方法は、日本100名城スタンプ(八王子城)、続日本100名城スタンプ(滝山城)を押印したものなど、現地を訪れたことがわかるものを持参し、指定の販売場所で購入することができる。現地を訪れたことがわかるものが無い場合は、販売場所でのクイズに答えることで購入することができる。