片倉城
八王子からJR横浜線で1駅行ったところに片倉駅があり、片倉駅の西側に小高い丘が見える。
この丘陵地帯には片倉城があったいわれるが、ここを整備し片倉城跡公園として昭和47年に開園され、近くの学校や幼稚園の絶好の遠足の目的地となっている。
片倉城跡公園はカタクリの群生地をはじめ、自然の地形や植生を生かした公園として有名である。片倉の地は殿丸城から続き秩父や川越に通じる鎌倉道が通っている。この街道を押さえるうえで重要な城であったことは戦国時代末期までこの城が使われたことからも明かである。
周りにある池に見られるように昔は一面低湿地帯であり、その北には川が流れ、この方面は天然の要害で守られていたことになる。
片倉城は、応永年間の室町時代に大江広元を祖に持つ長井氏が築城した「山城」との説があるが定かではない。長井氏は、山内上杉氏と連合して古河公方足利成氏に対抗した扇谷上杉の家臣。この地域は横山氏の所領で、「横山荘」(船木田荘)と呼ばれた。
建暦三年(1213)和田義盛の乱にくみして横山氏が滅亡したあと、大江広元の所領となった。その後、大江広元から出羽の国長井荘の地頭職を譲られた次男大江時広が長井姓を名乗り、横山荘を領有することになったという。
当時は東南北は沼であり、西は深い空壕とし、特に南側は2段の堀として城郭を固めた。その後、この地を治めていた大石氏の属城になったと推定される。大石氏は十三代定久の時、その家督を北条氏康次男氏照に譲り、戸倉城に隠居したと言われるが、その歴史的・地理的背景からこの片倉城に隠居したとする説もある。本格工事は武田信玄が関東に侵入した翌年の元亀元年(1570)北条諸城の修築命令によるものと推測されている。
甲斐からの再侵入に備え滝山城をより強化するため、東西南北の十字路にある片倉城を重要視し増強を図ったと考えられるからである。ただし、この城については依然として不明な点が多く、その歴史歴代城主・その廃城年については明らかになっていない。
この城跡を実測調査した加藤晋平は、その占地方法や縄張りきわめて類似する調布市深大寺城と、近い時期に構築されたものとしている。基本構成が深大寺城とまったく同じで、違いは深大寺城に三郭があることである。
戦国期の城郭は自然の地形を活用するので同類の形状は極稀と思われるが、現に姉妹城と云える遺構が現存している。ふたつの城は文明年間(1469~87)、ともに扇谷上杉方の城であった。十六世紀初頭、扇谷方の長井氏は衰亡したとみられ、永正七年(1510)に上杉顕定が敗死した頃、片倉城も廃城したと考えられている。
さて、山城というのは壮麗な天守閣などは持たず、山の地形を生かし敵の侵入を防ぐ曲輪(くるわ)や土塁から成るものです。この公園にも中世の城郭の特徴を示す櫓台、空堀や土塁の名残りが見られ、中世城郭の典型的な物であり、城跡全体が東京都文化財に指定されています。また、山の中腹には住吉神社がある。城の鬼門すなわち北東部を守護するためのものらしい。ただし本丸の一段下に位置していて、丁度その腰曲輪というべき場所を占めている。社史によれば片倉城主であった大江師親が、長門国住吉神社を勧進したものだそうである。
また、太平洋戦争中は高射砲陣地としても使われたらしい。
ところで公園入口あたりには彫刻のある街作りの一環として、水車小屋や長崎の「平和祈念像」の作者として有名な彫刻家北村西望の作品「浦島-長寿の舞」を始め西望賞入選作品が展示されている。「西望賞」は彫刻家北村西望の名を冠した日彫展の特別賞で、その受賞作を八王子市が毎年買い取って設置しているそうです。公園全体を通し、自然と歴史と彫刻を同時に楽しめるわけです。丘陵の頂上の広場は、休日にはピクニック、春は花見をする人たちでにぎわう。1年をとおして楽しめる公園でもある。
国道16号に面した正面入口には10台程度の駐車場があるが、休日などは、朝から満車の状態なので、電車でのアクセスがお勧め。
開園時間/9:OO~16:OO(年中無休)
八王子市片倉町2475