滝山城
滝山城の概要
国の指定史跡である滝山城は、八王子駅より戸吹行バスで「滝山城跡下」で下車すると、そこは「滝山公園」の入口。
ここに眠る滝山城は、八王子城に勝るとも劣らぬといわれた名城のひとつであり、北条氏照ゆかりの城です。
滝山城は、戦国時代の山城として、多摩川、秋川にのぞむ断崖を持った丘陵中、旧加住村最高地点に位置し、その西側にある高月城より一歩前進した築城構想をもって築かれたものです。
戦国時代の丘山城として 滝山城址が文部省の史指定を受けたのは、戦後の混乱がまださめやらぬ昭和24年12月のことであり、ついで昭和25年には、早くも東京都立滝山自然公園として設定されています。
その区域は、史跡滝山城址を中心としていわゆる加住丘陵の一部にわたり、標高200メートルで東北には多摩川と秋川が流れ、西南は谷地川で限られている一円の丘陵地帯です。
もっとも公園といっても、滝山城の跡地と、その周辺の丘からなる都立の公園ですので、公園と名が付いていていますが子供が遊べる遊具施設や売店などは一切なく、園内のほとんどは森林地帯で、足を踏み入れることもできません。
しかし、滝山城は、規模の大きさ、縄張りの複雑さ、遺構の保存状態の良さなどからみて、戦国時代の城郭遺構としては日本有数の遺跡であることは間違いないです。
こうした立地のため、登城口から城内に入るまでは少し坂を上ることになりますが、一度丘陵上に上がってしまえば、城内ではほとんど起伏を感じることはありません。しかも都立滝山自然公園として整備されているため、歩きやすく、のんびりと散策できます。
園内には遺構毎に説明板が設置されており、現在でも本丸跡、中の丸跡、空堀や土塁などを見ることができ本丸と中の丸の間に曳橋も復元されています。
なお、曳橋は、常時は橋として使用するが、有事の際には橋を引き込んだり、橋の踏板を外すなど、敵が渡橋できない状態にする橋のことで、北条家が築城した城の多くに見られる防衛方法で、八王子城にもその存在が確認されています。
さすがに公園化されているため多少の破壊は、やむをえないところですが、広大な城全体の骨組みはたどることができます。
堀や土塁、土橋などの防御施設はかなり良好かつ膨大に残っていて相応に見ごたえがあります。
滝山城の縄張(設計)は全国的にみても秀逸で、縄張を読み解ける城ファンもうなるほどの技巧性を誇るそうです。
この城跡に残る空堀や土塁などの遺構、地域の人達の保存活動が評価されて、2017年4月に日本城郭協会から「日本続百名城」に選ばれました。
都立滝山自然公園は、特に桜の名所として名高く、春には多くの花見客を迎えて賑わいます。初夏の新緑や秋の紅葉なども特にお勧めします。深い樹林に覆われた丘は散策やハイキングにも好適で、ちょっとした森林浴気分で楽しめます。
都心から電車でも車でも1時間で着く山中に埋れた城・滝山城へ城跡見学と森林浴ハイキングを兼ねて訪ねてみてはいかがでしょうか。
滝山城の歴史
高月城にいた関東管領山内上杉氏の重臣、武蔵守護代・大石定重が、大永元年(1521年)、高月城では後北条氏(小田原北条氏)に対する防御に不安があるため、高月城から同じ加住丘陵(標高170m)であるが、東南に約1km離れた滝山に移り、新たな山城を築いたとされています。
大石氏は西武蔵五郡(多摩・入間・比企・高麗・新座)を勢力下に収めていましたが、これだけの所領を持つ国人は山内上杉傘下でもおらず、家宰の白井長尾氏に次ぐ勢力を保持していたようです。
大石氏は多摩川河畔に築かれた本拠の滝山城を中心に、戸倉・高月・浄福寺といった支城群を有する戦国大名と呼んでも差し支えないほどの勢力基盤を有していたと考えられています。
やがて戦国時代となり、天文十五(1546)年の河越夜戦で北条氏康は扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉氏の勢力を上野に後退させて武蔵一国をほぼ手中に収めますが、その際に武蔵の国人領主たちの多くは北条に降って傘下となります。
そして滝山城主・大石定久もまた、北条氏康の3男・北条氏照を娘婿に迎え、北条家の軍門に下ったのです。
同様に武蔵国北部の秩父郡や大里郡を治める藤田氏の許には、5男の氏邦を養子入りさせ、北条氏は両氏の勢力の吸収を図っていきます。
ところが、多摩川上流域の青梅や奥多摩地方に根を張り、森林資源を抑えていた三田氏は、越後国守護代の長尾景虎(上杉謙信)の支援をあてにして徹底抗戦を続けていましたので、氏康は、氏照に三田氏討伐を命じるのでした。
三田氏の領国で伐り出された木材は多摩川によって下流に運ばれ、江戸湾や相模湾に面した各地で売りさばかれていたのですが、氏照は、多摩川を下ってくる木材を「滝山城」の線で分捕ることで三田氏を経済封鎖し、永禄4年(1561)、三田氏を滅ぼすことに成功します。
ちなみに、大石定久は、氏照に家督を譲り、戸倉城に隠居したと伝えられますが、北条の傘下に入った後も快く従属したわけではなく、上杉謙信や、北条氏照に勝沼城を追われ辛垣山城で抵抗していた三田綱秀らと誼を通じていたとも言われています。
また、定久は天文十八(1549)年に八王子周辺の野猿峠で割腹した、あるいは謀叛が発覚して柚木城に移された、などの説もあるようです。
さて、北条氏照はというと、三田氏を滅ぼすという大功を挙げたことで滝山城は天正9年(1581)から10年(1582)頃にかけて、大幅な改修が施されたのです。
その結果、小田原城の支城でありながら、大石氏時代の3倍から4倍の城域を持つ大要害となりました。複雑な地形を巧みに利用した天然の要害で、その規模雄大さは当時としては関東屈指の山城と称されました。
なお、大石氏の時代は横山城と呼ばれ、北条氏照によって滝山城と改称されたようです。ただし、滝山城が築かれたのは永禄6年(1563年)以降とする説もあり、そもそもの起源は定かでありません。
北条氏照は、天正12年(1584年)~天正15年(1587年)に本拠を滝山城から八王子城に移すまで、ここが拠点としていますが、大石から北条に姓を戻し、兄・北条氏政の名代として越後国侵攻、甲斐国や信濃国に侵攻などを行なっています。また、豊臣秀吉の小田原征伐の際に、主戦派として抗戦を主張しています。
滝山城の構造
この滝山城は巧みな築城技術の跡を残しており、道具といえば鍬しかなかっただろうこの時代によくもこのような城を作ったものだと驚かされます。(左記縄張り図は現地掲示板掲載のもの)
先ほども述べたように、この一帯は加住丘陵と呼ばれていますが、東は多摩川による浸食崖、西は谷地川の谷があります。
本丸は崖の上に立っていて、秋川、多摩川を見下ろす位置にあります。
このように滝山城は侵食の進んだ加住丘陵の一角に占地しており、複雑な自然地形を巧みに利用した天然の要害であり、特に北側は多摩川との比高50~80mの断崖をなしていて、北から侵入する敵に対しては鉄壁の備えとなっています。言うなれば「後ろ堅固」というのが、おおきな特徴といえるでしょう。
この地形が選ばれたのは第一に南下してくる上杉軍を発見できること、そして反撃のために態勢を整える時間が稼げること。第二に逆に北条氏が北進しやすいこと、第三は多数の人馬を収容できてその飲料水が確保できることがあげられるでしょう。
現在、多摩川を望む標高約160mの丘陵には、本丸、中の丸、二の丸、信濃屋敷、刑部屋敷、カゾノ屋敷、千畳敷、三の丸、小宮曲輪、山の神曲輪、滝の曲輪などの遺構がそのまま残っています。
本丸の周囲には大石氏時代の小規模で単純な曲輪が数多く存在し、その周りには北条氏時代の大規模で複雑な曲輪が多数構えられ、東西約900mという広大な城域には北条流築城術による高度な仕掛けが多用されています。(曲輪については詳細を後述)
複雑な空堀や特殊な馬出し、厳重な虎口などはすべて二の丸を中心に配置されており、通路は必ず二の丸に至る構造であることから、二の丸は滝山城の集中防御の拠点であったと考えられています。
二段構えの本丸には虎口が2箇所あり、1つは中の丸から引橋を渡って入る枡形虎口、もう1つは南側に設けられた枡形虎口で、いずれも良い状態で残っています。
平成8年に新たに発見された石畳は通路をふさいだ痕跡が見られるということで、廃城の意図が覗えるとか。本丸と中の丸の間には人工的に掘られた10メートルもある大堀切が存在し、これを結ぶ橋が、八王子城にもあった引橋です。
引橋からの枡形虎口は、発掘調査の結果、往時は敷石が施され、排水溝も備えており、土塁の内部を暗渠で通していることが分かりました。
二の丸には3つの尾根が集約していて、それぞれ虎口が3箇所ありますが、全てに馬出が設けられています。千畳敷角馬出、南馬出・大馬出、東馬出といったものです。
なお、千畳敷には政庁としての機能があったようで、大きな御殿が建っていたと考えられています。千畳敷と三の丸の間には進路が4回折れるコの字型土橋が残っており、強力な側面攻撃を実現していたようです。
三の丸は三方を空堀で囲まれており、現在でも堀底から三の丸まで15m程の高さがあります。
小宮曲輪は、西多摩地域出身で氏照の家臣である小宮氏の家臣屋敷のほか、大石信濃守のものとされる信濃屋敷、刑部屋敷、カゾノ屋敷など、親戚筋など信頼の厚い者の曲輪であったと考えられています。
小宮曲輪と三の丸の間にある天野坂が大手口と考えられています。
大手門は装飾等のない実戦本位の門であり、大手門に至るまでの坂道には2箇所程度の小門(木戸)を備えた複合的な守りであったと考えられています。
このようにしてその縄張りを見ていくと、本丸の三方を取り囲むように中の丸、二の丸、千畳敷、小宮曲輪が配されており、それらの外側を横堀が囲んでいる構造になっていることに気づきます。
要するに横堀で外郭防衛網を設定し、まず寄手をそこで防ぎ、ここを突破されても二の丸以降を攻め入ることを容易としない縄張りをもってして粘り抜き、あとは外部からの支援を待つということでしょうか。
言い換えると二の丸で防ぐことにより、本丸、中の丸を守るという考え方です。事実、武田信玄による滝山城攻めにおいて、兵力で圧倒する武田軍もこの二の丸を抜くことはできなかったとされています。
実際のところ二の丸は本丸と中の丸の前衛を成しており、なおかつ東・西・南に延びていく尾根の結節点になっています。
そこで氏照は二の丸の前方に大馬出を設け、大手道を登ってくる敵が二の丸へ接近するのを阻み、さらに大馬出が制圧されても、二の丸の三方に造られた枡形状の虎口により、迷路のように道を屈曲させて敵の侵入速度を弱めたうえに敵方を小分けにして殲滅できるように非常に防御性が高い構造を編み出しました。
滝山城の北側は多摩川にのぞむ絶壁ですが、南側は緩やかな傾斜で、車で楽に登れるほどです。また、滝山城を歩いてわかるのは山城というよりも平城であることなのです。
それどころか、城の中心部が周囲よりも低いのです。これでは城を見渡して中心部より指令を出すことができません。城外の敵の動きを城の中心部にいて把握することが出来ないのです。
また城の構成上、南側の一角が破られたとき東と西に分断されてしまうのです。中央にある谷と用水池が効果的な反撃の妨げてしまう難点を持っていたのです。
言ってみれば、滝山城は数千の攻めに対しては防御ラインがとれても、万を越す敵にはこれを防ぎきることは出来ないということになります。
また、言い換えれば「攻撃には有利」だが、「防御には不利」ということでしょう。
特にこの時代となると鉄砲が戦に導入されているはずですから、そうなるとますますもって撃たれやすく、危険な城というわけです。
なお、大石時代には本丸と呼ばれている主郭を中心として、二の丸と呼ばれている郭付近までであったと考えられており、小宮曲輪など の曲輪群は北条氏照時代に拡張されたものといわれています。
マニアの方なら、“縄張り”を入念に調べて、“城攻め”を楽しんでみてはいかがでしょう。
ところで、本丸跡の石碑にはこう記されている。「この城は関東の名城といわれ天文5年(1536年)北条氏康、同21年(1552年)上杉謙信、永禄12年(1569年)武田信玄の諸豪からの猛攻を受けた」と。そう、つまりは、この城は3度の攻撃に耐えたとい城ということだ。
しかし、史料の裏付けがあるのは信玄の来襲だけのようです。
滝山城の攻防戦
永禄12年(1569年)、小田原攻略へ向かう武田信玄が滝山城を攻めます。世に言う「滝山合戦」です。
滝山城は武田軍の猛攻にも耐え、何とか落城を免れましたが、小仏峠を越えて侵攻してきた別動隊にも苦しめられた北条氏は、この合戦で大きな教訓を得たようです。
「滝山合戦」の後、北条氏照は甲州道の監視に重きをおくために、新たに八王子城を築いて本拠を移し、滝山城は廃城となるのです。
永禄12年(1569)、前年に甲相駿三国同盟が破綻し、武田氏と手切れとなった北条氏は、信玄の侵攻を受けることになる。その時、攻撃目標の一つとなったのが滝山城でした。
信玄は今川氏を逐った勢いで、碓井峠を越えて上野国に入り、武蔵鉢形城の北条氏邦、さらに滝山城の北条氏照を攻め、次いで小田原城を包囲しました。
滝山城を攻めるに当たっては、信玄は、2方から攻める作戦に出たのです。小田原攻撃に向かう武田軍本隊は、武田勝頼を総大将に8000から1万の軍勢が、上州から大菩薩峠を越えて本陣を多摩川の対岸拝島におきました。
そして滝山城を攻撃、多摩川の北、拝島に本陣を置き、小田原方面と連絡する街道筋を閉鎖して、滝山城を包囲したのです。
一方、武田氏の別働隊である小山田信茂(のぶしげ)も甲斐国都留郡から1千余の兵を率いて、檜原口ではなく南方の当時道路のなかった現在の小仏峠を越えて武蔵国に侵入したのでした。
まったく想定していなかった所からの部隊の出現に驚いた氏照は、檜原方面の軍勢を滝山城に戻して、重臣の横地監物吉信(よしのぶ)、中山勘解由家範(いえのり)、布施出羽守らの精鋭部隊を滝山城から急行させたのでした。
出撃した滝山衆は、十々里(とどり)の原で小山田隊と激戦を繰り広げるが、善戦したものの戸取山の廿里砦(八王子市廿里町)を制した小山田氏に惨敗して滝山城下まで追撃されている。
のちに氏照は、この廿里(とどり)合戦の敗戦から甲州方面に備えて、逆茂木(さかもぎ)に利用するため枝に鋭いトゲのある「さいかちの木」を浅川北岸に植えさせたと『武蔵名勝図絵』に伝えられています。
小山田軍は、この勢いにのって滝山城へと迫った。小山田隊と合流した信玄本隊は、滝山城から多摩川を挟んだ拝島の大日堂に本陣を置いて指揮を執り、尾崎山には内藤修理亮昌豊(まさとよ)と真田左衛門尉信綱(のぶつな)を配して、滝山城と東西から対峙します。
いよいよ、武田四郎勝頼を総大将として総攻撃が始まり、平の渡しから多摩川を渡って、北条氏照をはじめとする、中山勘解由、狩野一庵、師岡山城守ら1千5百余の兵で守る滝山城を激しく攻めたてます。
氏照は城下の古甲州道沿いの宿三口(しゅくみくち)へ軍勢を繰り出して戦いますが、押し寄せる武田勢に師岡勢は木戸を出て防戦に努め、氏照も陣頭に立って采配をふるいます。
この一戦で滝山の周辺の村々は武田軍によって焼き払われており、滝山城は裸城にされたと伝えられています。
ついに一の木戸が破られて三の丸が陥落し、氏照は手傷を負いながら二の丸の二階門に登って指揮を執り、みずから槍を振るって二の丸を死守します。この時、勝頼は、氏照と直接槍を合わせたと伝わっています。
戦闘は苛烈を極め、三の丸まで落ちたが、氏照は二の丸を死守しました。氏照自身も手傷を負いながら槍を振るって奮戦したと伝えられます。まさに落城寸前であったといえるでしょう。
しかし、武田軍の本来の目的は、小田原城にあったのです。
北条氏と越後の上杉謙信との連携を断ち切るため小田原の北条氏を牽制することが目的だったのです。
このため、3日目にして滝山城攻撃を中止、小田原へと転進していった。これにより滝山城は落城だけはなんとかまぬがれたのでした。
戦略的見地からはこの滝山城は、城域及び支配地が戦場とならない限りその欠点をさらけ出すことはなかっただろう。その欠点は勝頼軍の城内中心部までの乱入という形で明らかにされたわけですまた甲州に対する防御の考え方と鉄砲対策の不備が明らかになったというわけです。
この合戦の十数年後、氏照は、独立した険しい山により堅固な八王子城を築城すべく、とりかかり、すぐさまそこに引っ越したのでした。
平城の滝山城の弱みを知ったからだというが一説には「滝は、水が落ちて流れるから縁起が悪い」といったとか。
天正18年(1590)の小田原合戦では、氏照は本拠の八王子城を家臣に任せて小田原城に籠もった。
そのためか八王子城は無残な落城を遂げ、小田原城も降伏開城する。
氏照は前当主の氏政や2人の家老と共に自害し、北条氏は滅亡する。
小田原合戦の時は、滝山城は、おそらく捨て城とされて、一帯の兵という兵は八王子城に籠もらされたと考えられています。
アクセス:京王八王子駅・JR八王子駅北口から「戸吹(ひよどり山トンネル経由)」行きバスで約20分、または拝島駅から西東京バス杏林大学行き乗車約15分、「滝山城址下」下車徒歩5分
駐車場:29台 午前8時~午後6時(但し11月1日~2月末日は午後4時)
参考文献
八王子市「新八王子市史 資料編2『中世』」平成26年3月31日発行
中田正光著 揺籃社発行 よみがえる滝山城ハンドブック「滝山城戦国絵巻 中世城郭のからくり」