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八王子城を歩く



宗関寺と北条氏照墓

 曹洞宗寺院の宗関寺は、延喜17年(917)に華厳菩薩の敕謚号を受けた平安の僧、妙行の創建とされています。
 妙行が修行していると、牛頭天王(ごずてんのう)が8人の王子(八王子の名称の由来)を連れて現れ『この地に留まり修行を行えば、我はそなたの法を護ろう』と告げた。そこで妙行は牛頭天王を祀り、八王子権現と称し、自らの庵を蓮華院として修業を行ったといいます。

 その後、天慶2年(939年)朱雀天皇から領地を賜り、勅願所として牛頭山神護寺としました。

 文明年間(1469-1487)に荒廃していたものを、永禄年間(1558年~1570年)北条氏照が八王子城を築く際にその命を受けて、中山家範が工事の指揮をとり、隨翁瞬悦大和尚を請して正親町天皇の綸旨を得て堂宇を再建し、牛頭山宗関寺として再興したといいます。

 天正18年の八王子城落城と共に焼失してしまいますが、2年後には随翁舜悦禅師が、北条氏照公の戒名「青霄院殿透岳宗關大居士」の「宗關(宗関)」より朝遊山宗関寺と改めて開山しました。

 年不詳ながら江戸幕府より寺領10石の御朱印状を受領しています。

 境内にある梵鐘や本堂正面の額は、第九世心安海音大和尚により元禄二年(1689年)北条氏照の百回忌が執り行われた際、中山家範公の末裔である備前守信治公の寄進によるものです。信治公は水戸光圀の家老であり、正面額の文字は明の僧東皐心越禅師によるものです。銅造梵鐘は、市有形文化財に指定されています。

 落城の日、氏照は兄氏政とともに小田原に詰めており、小田原城の開城後、秀吉の命により切腹しました。この際、宗関寺の禅師が氏照の亡骸を受けに行っています。その時の血染めの袈裟が寺に保存されているほか、戦死者名簿や北条氏ゆかりの遺物が多く保存されています。

 なお、氏照によって再建された時の寺地は現在の所在地より少し城山側、氏照の墓所がある付近に建てられており、現在の場所には当時、氏照の重臣・横地監物の屋敷がありました。現在の場所へは明治25年(年)に移築されました。

 また、寺門の脇には土塁の様な土盛りが残っており、横地堤と呼ばれています。
 現在の車道は真っ直ぐ堤を貫通していますが、当時は堤にぶつかって左に折れ、堤の下を城山川に沿ってお城の方へ向かっていました。
 根小屋地区への最初の防衛線の役割も担っていたわけです。

宗関寺銅造梵鐘
 北条氏照の百回忌に際し、氏照の家臣中山家範の孫、中山信治等が八王子城の戦死者の追善供養のために鋳造寄進したものです。
 鋳工は椎名伊予良寛と椎名兵庫重長で銘文は水戸光圀に寵遇された明の僧、心悦禅師によるものであり、歴史的資料としても貴重なものです。(八王子市教育委員会掲示より)


北条氏照および家臣墓
 北条氏照は早雲の孫・氏康の子で、関東管領上杉家の老臣大石定久に代わって永禄2年(1559)頃滝山城主となったとされています。
 氏照はほかに榎本・古河・栗橋など数城を併有したとされ、後北条氏の勢力拡大に大きく寄与した人物でした。
 武蔵国と甲斐国の境に大規模な山城である八王子城を築いたことでも有名です。
 天正18年(1590)の小田原攻めでは豊臣秀吉の武将前田利家・上杉景勝らの軍勢に対する家臣中山勘解由らの防戦もむなしく八王子城は落城しました。
 兄氏政を助けて小田原城にいた氏照も開城後兄とともに切腹を命じられました。
 現在ある氏照の供養塔は勘解由の孫水戸藩家老中山信治が氏照の死後100年忌の追善供養のために建てたものです。
 両脇には家臣であった勘解由と信治自身の墓もあります。(東京都教育委員会)

氏照と家範らの供養塔の周囲には石碑・石仏が沢山あります。
以前の宗関寺観音堂の跡地にあります。





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八王子の名城「八王子城」「滝山城」は令和4年2月11日、登城記念として「御城印」の販売を開始した。御城印の販売は、桑都日本遺産センター八王子博物館のみの取扱となっている。一人各1枚まで購入することができる。購入方法は、日本100名城スタンプ(八王子城)、続日本100名城スタンプ(滝山城)を押印したものなど、現地を訪れたことがわかるものを持参し、指定の販売場所で購入することができる。現地を訪れたことがわかるものが無い場合は、販売場所でのクイズに答えることで購入することができる。