甲州街道訪ね歩き

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鬼の変遷


 平安時代は、仏教や陰陽道の影響を受けて、鬼のイメージが多様化しました。
鬼は、人間に危害を加える悪鬼としてだけでなく、人間の怨霊や疫神としても描かれるようになりました。
 平安時代末期の公卿(くぎょう)・藤原頼長(ふじわらよりなが)は日記『台記』に鳥羽法皇が病にかかったのは祖父・白河法皇の「鬼」に憑かれたものであると記しています。このように日本でも平安貴族などの教養人が、本来のものと思われる死霊の意味で「鬼」という言葉を用いていた例があります。

 平安時代は、日本の歴史で仏教の影響が大きくなった時期で、この時代に鬼のイメージも仏教的な視点から再構築されました。仏教が広まると、鬼は仏教寺院や宗教行事で重要な存在となり、寺院では鬼を仏法に帰依させ、守護神として尊重されるようになりました。

鬼の姿の変化

 平安時代の鬼における変化は、伝統的な外見からの転換と、より親しみやすく美的な側面の取り入れが見られました。
 この時期の鬼の描写は多様であり、特定のイメージで一括りにすることは難しいですが、平安時代の鬼は、伝統的な恐ろしい外見から、ある意味、親しみやすく、美的な要素を組み込んだ形に変化しました。これは、時代背景や文化の変遷に伴い、人々の価値観や対鬼観が変わった反映と言えます。

 また、平安時代に描かれる鬼は、頭に2本もしくは1本の角が生え、頭髪は細かくちぢれ、口には牙が生え、指には鋭い爪があり、虎の皮の褌や腰布をつけ、金棒を持った大男の姿を持っていました。これらの特徴的な要素が、鬼の一般的なイメージを形成しています。
 そして、鬼の肌の色は青・赤・黄・緑・黒の5色で、「青鬼」「赤鬼」「緑鬼」「黄鬼」「黒鬼」などと呼ばれ、多様な色使いが見られました。
 これらの色彩は、鬼の性格や属性を象徴している可能性があります。鬼の赤い顔、角、牙、爪などの特徴は、仏教的なアイコンとしても表現されました。
 これは、仏教において鬼は守護神や邪悪を打ち破る存在と見なされ、鬼の特徴が仏陀の神聖性を強調する手段として利用された可能性があります。

 なお、二松学舎大学教授の小山聡子氏によれば、「平安時代には仏教経典に基づく鬼、モノノケや正体定かではない死霊が鬼として描かれたもの、疫神として登場する鬼などに特に区別はなく、大きな身体、一つ目、大きな口、角、赤い褌、手足が三本指などの特徴が示されることが多く、これは仏教経典に描かれた鬼の図像の影響が大きい」と主張されています。

 また、時折、鬼は可愛らしいキャラクターとして描かれることもありました。これは、鬼のイメージが単なる恐ろしい存在から、人間味溢れるキャラクターとして受け入れられるようになった兆候です。

鬼の守護神化

 平安時代において、鬼は守護神としての役割を果たしました。
 この時代では、病気や災害は神の祟りと考えられ、その祟りを引き起こす神の姿を鬼に例えて恐れることが一般的でした。鬼の守護神化の例として、「陰陽師」、「鬼瓦」、そして「兜跋毘沙門天立像」を紹介します。

 「陰陽師」は、人々の心の中の善行や悪行を明らかにし、災いを除く役割を果たす存在として知られています。その中でも特に有名なのが、安倍晴明です。彼は式神と呼ばれる鬼神を使役し、その力を用いて人々を助けました。
 式神は、陰陽師が使う神様(鬼)のことで、人の目には見えません。晴明はこの式神を使うのに長けており、屋敷内の雑用から掃除、儀式など様々なことをさせていました。しかし、彼の妻は式神の顔が怖いというので、普段は一条戻橋の下に封じ込められていました。
 一条戻橋は、洛中と洛外を分ける橋であり、"この世とあの世の境目"という意味も持っているとも言われています。晴明は、この橋の下に式神を隠し、必要な時だけ屋敷に招き入れていました。
 安倍晴明は、陰陽道により祈祷し雨を降らしては飢餓を救い、病を癒やしていたと言われています。そのため、彼の名は陰陽師の中でも特に知られています。彼の活動は、人々の生活を豊かで安全なものにするための重要な一環でした。このように、陰陽師と式神は、人々の生活を守り、社会を安定させるための重要な役割を果たしていました。

 「鬼瓦」は、日本の伝統的な建築物の屋根の端に設置される装飾性のある瓦の一種で、その起源は古代ローマの厄除け「メドゥーサ」にあるともいわれています。メドゥーサを模した装飾がシルクロードを経由して中国に伝わり、そこから奈良時代に日本に伝えられました。
 日本では、鬼が厄災を払い除けるとされ、その強さにより通常では太刀打ちできない魔物さえも圧倒することができると信じられていました。そのため、鬼瓦は家や家族の「守り神」や「魔除け」として親しまれてきました。鬼瓦には鬼の顔をしたものだけでなく、家紋や福の神がついたものなど、さまざまなデザインがあります。これらは、家内安全や無病息災、災害回避などの願いが込められています。このように、鬼瓦はその強力な守護力から信仰の対象となり、日本の建築文化に深く根付いています。

 また、平安時代の作とされる「兜跋毘沙門天立像」は、毘沙門天の一種で、特に独特な姿勢で表現されています。この像は、地天女の両手に支えられて立ち、二鬼を従える姿で表現されています「兜跋毘沙門天立像」は、金鎖甲(きんさこう)という鎖を編んで作った鎧を着し、腕には海老籠手(えびごて)と呼ぶ防具を着け、筒状の宝冠を被ります。左手には宝塔を、右手には宝棒または戟を持ちます。
 この特殊な姿勢は、兜跋毘沙門天が外敵を撃退し、北方を守護する力を象徴しています。また、「兜跋」とは西域兜跋国、即ち現在のトゥルファンとする説が一般的で、ここに毘沙門天がこの姿で現れたという伝説に基づいています。
 兜跋毘沙門天立像の独特な姿勢は、その強力な守護力と外敵を撃退する力を象徴しています。この像は、日本の文化財として重要な価値を持っており、その独特な姿勢と意味は、日本の仏教美術における重要な要素となっています。

 これらの例から、平安時代の人々は鬼を守護神として尊重し、その力を利用して社会を保護し、邪悪な力から身を守る手段として活用していました。
  鬼は仏教の教えを守り、悪から守る存在として捉えられ、その存在は寺院や神社、そして家庭の中にも深く浸透していたことが分かります。

鬼の祭りと儀式

 平安時代には、鬼を祭る多くの祭りや儀式が行われました。特に節分では、季節の変わり目から入り込んでこようとする鬼を、玄関先に飾ったヒイラギとイワシで撃退する風習がありました。これは「柊鰯(ひいらぎいわし)」と呼ばれる魔除けの風習です。

 また、大晦日には「追儺(ついな)」という儀式が行われていました。これは疫病の神様である「儺(な)」を追い払う儀式で、悪いことを追い払う行事です。
 この儀式は、中国から伝わったもので、日本では大陸文化が採り入れられた過程で宮中で行われるようになり、年中行事として定められていきました。
 これらの祭りや儀式は、仏教の教えと日本の伝統が融合したもので、鬼が重要な役割を果たしました。
 鬼は仏教の教えを守護し、悪から守る存在として考えられ、その存在は寺院や神社、さらには家庭の中にも広く浸透していました。

 これらの事例から、平安時代の人々が鬼を守護神として尊重し、その力を利用して社会を保護し、邪悪な力から守るために活用したことがわかります。

鬼の宗教的な象徴

 平安時代において、鬼は宗教的な象徴として重要視されました。仏教の観点から見ると、鬼は欲望や邪念を象徴し、これらを克服するための教訓を示す存在とされました。
 鬼は地獄において閻魔王の元で亡者を責める獄卒としてのイメージが広く知られています。
 また、鬼は「○○童子」と名付けられることもあります。このような呼び名は、仏教的な視点から見た鬼の性格や役割を示しています。

 仏教の教えを守護し、悪から守る存在として捉えられた結果、「○○の鬼」といった表現も見られます。このような言い回しは、鬼が社会や個人を悪から守る守護神としての側面を強調しています。

 平安時代の人々は、鬼を守護神として尊重し、その力を活かして社会を保護し、邪悪な力から身を守る手段として利用していました。

 鬼の存在は寺院や神社だけでなく、家庭の中にも広く浸透し、仏教の教えを具現化するものとされていました。

鬼の文化への影響

 平安時代の鬼は、都市文化と深く関連し、百鬼夜行や酒呑童子などの都市伝説が生まれました。

 百鬼夜行は、平安時代から室町時代にかけて語られ、凶日の夜に一条大路や二条大路を行列する鬼たちが異界の存在を都に侵入させるとされ、その恐怖が描かれています。登場する鬼は異形で、その数や性質は多岐にわたります。

 鬼の仏教的解釈は、日本の文化や美術に大きな影響を与えました。
 また、絵画や彫刻においては、鬼の美的要素が取り入れられ、物語や演劇でも鬼の伝説が広く使われました。
 絵巻物「地獄草子」では、地獄にいる獄卒と呼ばれる鬼が描かれ、罪人たちに苦しい仕打ちを与える場面が描かれています。この絵巻物は、仏教の教えに基づき人間の死後の転生を描いており、当時の死生観や人間への認識を反映しています。
 これらの絵巻物は、寺院や神社だけでなく、家庭においても広く浸透し、当時の社会における鬼の捉え方やその重要性を示しています。
 このように平安時代の鬼の描写は多様で、仏教や陰陽道、都市文化などの影響を受けて変化していったと言えます。