甲州街道訪ね歩き

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 室町時代(1336年-1573年)において、鬼のイメージは一層多様化し、鬼の面が伝統的な芸能や祭りにおいて不可欠な要素として際立ちました。

能や狂言での役割

 室町時代において、鬼は伝統的な日本の舞台芸能である能や狂言などで重要な役割を果たしました。
 舞台上では鬼は頻繁に登場し、その姿勢や仮面、衣装が独特の役割を果たし、役者の演技を通じて鬼の特徴や性格が表現されました。

 鬼の面は室町時代に広く使用され、その特徴を強調し、役者が鬼の役を演じる際に用いられました。
 非常に精巧に作られた鬼の面は、鮮やかな色彩や角、牙、恐ろしい表情が表現され、鬼の存在感を際立たせました。

 室町時代の鬼の面は、その強烈なビジュアルと色彩により視覚的なインパクトを提供し、観客の感情を引き立てました。これにより、鬼の面は視覚芸術の一形態となり、舞台芸能や祭りにおいて重要な要素となりました。

 能や狂言の舞台では、鬼は人間との対立や戦闘の要素を含むキャラクターとして登場し、「人の心」を持つ存在として描かれました。鬼は驚かすだけでなく、心に悲しみや後悔を抱えた存在としても表現されました。

 鬼の出現場所や時刻は一定しておらず、異界との接点である町や村の辻や橋、門などで現れることがあり、夕方から夜明けまでの夜間に登場する傾向がありました。
 鬼は人間界と異世界の接点と見なされ、物語において重要な役割を果たしました。

 能や狂言に登場する鬼の性格は多様で、恐ろしい存在から愉快なキャラクターまで演じられ、物語の展開に多彩な要素を提供しました。この多様性は、能や狂言が様々なテーマを扱うために貢献しました。

鬼祭りの盛況

 室町時代には、鬼を祀る祭りや儀式が盛んに行われました。これらの祭りでは、鬼を神聖視し、供物を捧げて鬼を祝福し、悪霊や邪気を払う儀式が執り行われました。
 鬼祭りは地域ごとに異なり、宗教的な要素とエンターテインメントが結びついたものでした。

 「鬼会」「田遊び」はその一例ともいえるものです。
 東光寺の「鬼会」は、兵庫県加西市上万願寺町の東光寺で行われる年頭の行事で、厄年の男性が扮する薬師寺如来の化身である赤鬼と青鬼の二匹の鬼が登場し、松明や大きな鉾を振り回しながら堂内を巡って、一年の災厄を払うものです。鬼の持つ松明の火を浴びると、1年間無病息災で過ごせると伝えられています。
 鬼が登場する前には、田起こしや種蒔きなど稲作の作業過程を模擬的に演じる「田遊び」が行われ、一年の豊作が祈願されます。鬼の面をかぶった男たちが田んぼに入り、泥んこになりながら踊ります。「鬼が田遊びをしている」と言われ、この鬼は悪い鬼ではなく、田の神様として祀られています。

 もう一つの例が「古式追儺式」で、京都の吉田神社で毎年2月2日に行われる節分祭の一部です。黄金の鬼面をかぶった役者が子供たちを従えて鬼を祓う儀式で、古い形で伝えられています。

 これらの祭りや儀式の背景には、鬼に対する人々の考え方の変化が見られます。鎌倉時代には鬼は恐ろしい存在とされましたが、室町時代には神聖な力を持つ存在として尊ばれるようになりました。
 鬼は強大なエネルギーを象徴する存在とされ、その祭りや儀式は宗教的な意味合いだけでなく、エンターテインメントとしても楽しまれました。鬼の面や衣装の派手さ、動きの多様性、音の刺激などが人々を楽しませ、神との交流だけでなく、笑いと楽しみをもたらしたのです。

美術や文化への影響

 鬼の面や鬼のイメージは、室町時代の美術や文化にも大きな影響を与えました。鬼の美的な要素は絵画や彫刻に取り入れられ、鬼の形象は美術作品のモチーフとして頻繁に使用されました。
 また、鬼の伝説や物語は文学や舞台芸術に多く取り入れられ、日本の文化に深く根付いたものとなりました。

 代表的な絵画のひとつである「百鬼夜行絵巻」は室町時代(16世紀)に制作されたとされています。
 特に代表的な作品である『百鬼夜行図』は、京都大徳寺山内の塔頭・真珠庵に所蔵されています。
 この作品は土佐派の画家・土佐光信の筆であると伝承されていますが、確証は得られていません。
 制作背景や作者の詳細は不明瞭であり、多くの謎が残っています。

 「百鬼夜行絵巻」の描写は、日本の民間信仰や妖怪譚に根ざしています。
 絵巻物に描かれる「百鬼夜行」は、鬼や妖怪たちが夜に行列をする様子を描いています。
 ここで現れる妖怪は日本の伝承や民間信仰において様々な形で語り継がれ、絵巻物はこれらの伝承を視覚的に表現しています。

 これらの妖怪は多様で、青鬼や赤鬼をはじめとする様々な姿や形態が描かれています。
 ところがこの百鬼夜行の妖怪の中に、青鬼や赤鬼の他にも、人間の使う道具が変化したものが現れます。
 調理道具の釜、古くなって捨てられた釜は、火を噴いて怒りをあらわしています。
 履物の下駄は、変化し女性の顔になりあざけ笑うなど、日常の道具が妖怪になりました。
 これらの妖怪の正体は打ち捨てられた古道具に魂が宿った付喪神(つくもがみ)です。
 「百鬼夜行」が描かれた室町時代は、商工業が非常に盛んになり、商人の力も増していった時期です。新しい物がたくさん作られ、古いものが捨てられるようになりました。捨てられた物は、大事に使ってほしかったと非常に怒るようになるという絵となったと思われます。
 最近、「もったいない」という言葉が世界でも使われていますが、物を粗末にすると化けて出る、物は大切にしないといけないというのが、こんな昔からの提言だったのでしょう。

 またこれらの鬼、妖怪の類は、かつては貴族を脅かしていた魔界のもの達でしたが、生活道具が変化した妖怪があらわれたことは、妖怪が単なる怪異だけでなく、人々の生活に深く結びついた存在として捉えられた可能性があります。
 これまで貴族が行っていたお札を貼る、鬼門除けをつくるなどといった行為もが、この頃から庶民も取り入れるようになっていったのです。

 ところで、描かれる妖怪たちは、人間とは異なる多面多臂多足の姿で表現されていますが、その美麗な姿や精巧な造形に特徴があります。
 これは、土佐派の画家の技術により、妖怪たちが恐ろしいだけでなく、芸術的な要素も備えた存在として描かれた可能性があります。

 また、妖怪たちが器物や楽器を持ちながら行進する様子は、祭りや行事の雰囲気を醸し出しており、これらの妖怪たちは単なる脅威ではなく、人々の祭りや儀式に結びついた存在として描かれていることがうかがえ、芸術と宗教・祭りの融合が見られます。
 また、器物や調度の化け物が描かれることで、妖怪と日常生活の結びつきが強調されて、妖怪が人々の身の回りに潜む存在であり、日常の中に祭りや儀式を通して参加する要素として位置づけられた可能性があります。祭りや神事と芸術が一体となった作品と言えます。

 これらの絵巻物は、当時の人々の死生観や人間への認識、また絵画表現を伝えるきわめて貴重な資料であり、その存在は寺院や神社、さらには家庭の中にも広く浸透していました