甲州街道訪ね歩き

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 鎌倉時代(1185年-1333年)において、日本の鬼信仰や鬼にまつわる習慣は大きく進化しました。
 特に、鬼は農業や豊作の守護神としての役割が際立ち、鬼信仰に基づく様々な民間行事や祭りが広まりました。
 鬼の概念の変遷にともない、文献に描かれる鬼の姿や性質も変容していきました。
 平安時代の『伊勢物語』や『今昔物語集』などにあらわれる「鬼」は、すべて目に見えない存在として描かれています。
 それが鎌倉時代の『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』になると、伊豆の離島に漂着した巨大で異様な姿の異人を「鬼」と記すようになります。
 『春日権現験記』では、屋根の上に真っ赤な体に白いふんどしをつけ、舌を出し家をのぞき込む鬼が描かれています。
 また、『融通念仏縁起絵巻』には、建物の門の前にぞろぞろ集まる鬼が描かれ、頭に鹿のような角が生えているもの、いくつもの目があるもの、といったようにその姿も多様になってきます。

農業の守護神

 鎌倉時代における鬼と農業のかかわりは、農村社会において深く根付いた信仰体系であり、鬼が農業の守護神として重要視された背景には、豊作と生計の安定への願いが強く影響しています。
 鎌倉時代において、鬼は一般的な信仰対象となり、特に農村社会では鬼信仰が広まりました。
 この時代は、社会が安定し、農業が中心の生業となった時期であり、人々は自らの生計を確保するために自然や神々に対して信仰心を深めていました。

 鎌倉時代において農業は社会の中で主要な生業であり、食糧確保が生活の基盤でした。
 そのため、豊作を願う信仰が発展し、鬼が農業の守護神として位置づけられました。
 農民たちは豊かな収穫を祈り、鬼に祈りと供物を捧げて作物の守りを頼みました。
 鬼信仰は豊作への祈りとともに、農民たちの日常生活に密接に結びついていました。
 鬼が農作物の守護神としての役割を果たすことが期待され、その信仰は農業における安定と繁栄への期待を表していました。

 鬼の名前や姿が特定の作物や季節に結びつき、祭りや儀式が行われたことが窺えます。
 たとえば、「鬼の舞」と呼ばれる祭りでは、舞台や衣装、舞の振り付けなどが特定の作物や季節に関連していた可能性があります。
 これらの祭りは農作業の季節や収穫時期に合わせて行われ、神々や鬼への感謝と豊かな収穫を願うためのものでした。

 鬼信仰に基づく祭りや儀式は、特定の作物の収穫を祝い、農民たちが鬼を農作物の守護神として崇拝する場でした。
 これらの行事は、農業の成果を神に感謝し、同時に未来の豊かな収穫を祈願するために行われ、農村社会の結束を強化しました。

 このように鎌倉時代の鬼信仰は、農業社会において安定と繁栄を求める信仰の表れでした。鬼は単なる妖怪や怖ろしい存在だけでなく、豊かな収穫と生計の安定をもたらす守護神として信仰され、祭りや儀式を通じて農業の成功を願う手段として機能しました。
 これは、農村社会において鬼信仰が生活の一部となり、農業との深い結びつきを形成していたことを示しています。

鬼祭りの盛況

 また、鬼祭りや儀式が盛んに行われました。
 これらの祭りでは、鬼の仮装や鬼の面をつけた祭りの参加者が町を練り歩き、農業の成功や邪悪な霊からの保護を祈願しました。
 鬼祭りや儀式は、鎌倉時代になると地域ごとに異なる形態を取り、多様な信仰と習慣を融合させました。
 例えば、鶴岡八幡宮では、鬼祭という祭りが行われます。

 鬼祭は、平安から鎌倉時代に流行した田楽に日本建国の神話を取り入れて神事としたもので、古式を崩さずに伝えられています。鬼祭では、天狗と赤鬼のからかいという舞が見られます。
 天狗は、鬼の一種とされる山の神で、赤鬼は、鬼の一種とされる邪悪な存在です。天狗と赤鬼のからかいは、天狗が赤鬼をいじめるという内容で、天狗の威厳と赤鬼の滑稽さを表現しています。

 他にも、鎌倉の祭りや民俗行事には、鬼に関係するものが多くあります。
 例えば、大的式という祭りでは、鬼の仮装をした者が大的に向かって弓を射るというものです。
 もともとは弓の弦の音を響かせて悪魔を払いのけるという弓に対する信仰としての儀式だったようですが、今では大きな的の裏に「鬼」という字を書いて、それを射ぬいて鬼を払うことから「大的式」とも呼ばれています。

 また、鬼追式という祭りでは、鬼の面をつけた者が寺院の境内を走り回るというものです。
 鬼追式は、法隆寺で行われる追儺会という儀式に由来するとされています。
 追儺会では、毘沙門天という鬼神が鬼を追うというものです。

 このように、鬼祭りや儀式は、鎌倉時代になると地域ごとに異なる形態を取り、多様な信仰と習慣を融合させました。
 鬼祭りや儀式は、鬼と呼ばれる病気や災厄をもたらす存在に対抗する人間の勇気や正義を称えるものであり、人々に勇気や希望を与えるものです。
 鬼祭りや儀式には、鬼と人間の関係や鬼の性質についても様々な考察が含まれており、鬼祭りや儀式を見ることで、鎌倉の歴史や文化についても深く理解することができるかもしれません。

 また、鬼は農業に限らず、悪霊や邪悪な力からの保護としても重要な象徴となりました。鬼の姿は力強さや勇気を象徴し、人々は鬼を通じて自身の困難を克服しようとしました。

仏教との融合

 鎌倉時代(1185年-1333年)には、鎌倉幕府の成立と武士階級の台頭があり、仏教と鬼信仰が興味深い融合を見せました。仏教の教義と宗教的な概念が鬼信仰と交わり、新しい信仰体系が形成されたのです。

 この時代は武士階級が政権を握り、仏教が重要な役割を果たしました。
 浄土宗が栄え、特に法然(1133年-1212年)と忍性(1175年-1262年)による浄土真宗が隆盛を極め、「阿弥陀仏に信心を寄せ、極楽浄土への生まれ変わりを願う」浄土思想が浸透しました。
 これは庶民にも広く受け入れられ、生死超越の教えとして大きな支持を得ました。

 同時に禅宗も栄え、中国の禅宗を基に坐禅(座禅)を通じて直接的な悟りを追求する宗教として武士階級に受け入れられました。
 栄西(1141年-1215年)による曹洞宗が伝えられ、その後、道元(1200年-1253年)によって発展しました。
 禅宗は戦国時代以降にも武士階級に影響力を持つ重要な宗教となりました。

 一方、鬼信仰は鬼を邪悪な存在と見なしつつも、その力を利用して災厄を避けたり、魔除けとして崇拝する信仰です。
 鬼はしばしば煩悩や欲望を象徴し、それを乗り越えるための仏法の力を借りる存在とされました。

 鎌倉時代には、仏教と鬼信仰が一部の寺院で融合し、鬼を邪悪な存在ではなく、仏法に帰依する存在として捉える事例が生まれました。
 これらの寺院では、鬼が修行僧として描かれ、修行や悟りの過程が物語や絵画で表現され、鬼を崇拝する行事や祭りが行われました。

 信者たちは鬼を通じて仏法の教えを学び、自身の煩悩を超越する意識を養いました。
 この鬼信仰と仏法の結びつきは時代や地域によって異なりましたが、鬼を仏法に組み込むことで、仏教の教えを身近に感じさせ、共感を呼び起こす手段となりました。

 このように鎌倉時代の鬼信仰は、農業と豊作に対する願望を背景に、鬼を重要な守護神として位置づけ、民間行事や祭りを通じて鬼を崇拝しました。
 鬼は農業社会の中で根付き、その信仰は日本の習慣と文化に深く組み込まれました。

 鎌倉時代の鬼信仰は、豊かな収穫と繁栄を願う農村社会の中で重要な役割を果たし、その影響は日本の歴史と文化に大きな足跡を残しました。