甲州街道訪ね歩き

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江戸時代(1603-1868)~民間信仰に現れる鬼


 江戸時代(1603年-1868年)において、鬼の民間伝承や祭りは日本中で盛んに行われ、多くの地域で鬼にまつわる風習が発展しました。
 特に、節分の季節に行われる「節分」の儀式は非常に重要で、鬼を追い払うことが縁起を呼ぶと信じられていました。

鬼にまつわる民間伝承の広がり

 江戸時代の鬼の姿は、民間伝承や祭りで非常に多彩で魅力的でした。鬼は伝統的には赤い顔に角や牙、乱れた髪型で描かれ、その外見は恐ろしさを強調していました。
 同時に、鬼は時には愉快で奇妙なキャラクターとしても登場し、風刺や笑いをもたらすこともありました。

 江戸時代には、鬼にまつわる多くの民間伝承が広がりました。
 これらの伝承には、鬼が人々の生活に影響を与えるさまざまな物語が含まれており、鬼の存在は日常の一部となりました。
 鬼が作物や疫病の原因とされたこともあり、鬼信仰は広く民間に浸透しました。

 鬼は、仏教の影響を受けて、地獄の番人や罪人の化身として恐れられるようになりました。
仏教では、鬼は人間のさまざまな欲望の化身とみなしており、鬼になることは極悪な行いの報いとされました。鬼は、人間の心の闇や苦しみを表す存在として、民衆の共感を呼びました

鬼の祭り

 江戸時代においては、各地で鬼を祀る祭りや行事が盛んに行われました。これらの祭りは、地域の伝統や文化、信仰を反映しており、共通して鬼信仰を祝福し、邪気を払う要素が含まれていました。

 節分は、春分・夏至・秋分・冬至の四季の節目を指し、特に冬至の節分が鬼を扱った行事として知られています。
 節分の日には、鬼を払うために福豆をまく「豆まき」が行われ、鬼の仮装をした人々が登場し、家族や寺社で楽しまれました。節分の鬼は、疫病や災厄を追い払う儀式として行われました。

 正月や大晦日には、鬼やらいと呼ばれる鬼の仮装が行われ、家々を訪れて子供のしつけや福の招来を促しました。
 端午の節句には、鬼の目玉をつけた鎧や兜が飾られ、邪気を払うとともに男子の健やかな成長を願いました。鬼は民間の生活に密着した存在として、信仰や願いを反映しました。

 地域の祭りやお祭りでは、鬼踊りや鬼太鼓が盛んになりました。これらのパフォーマンスでは、鬼の仮装や大道具、太鼓のリズムが組み合わさり、鬼を祀ると同時に地域の賑やかさや団結を象徴していました。
 有名な例として、秋田県の「秋田の竿燈まつり」や島根県の「出雲大社例大祭」が挙げられます。

 地域によっては、鬼の面や人形が作られ、祭りの際に使用されました。
 これらのアート作品は伝統的な技法で製作され、神聖視されながらも、鬼信仰における力強いイメージを表現していました。
 例えば、岩手県盛岡市の「いわて盆踊り」では、鬼踊りが特に盛んであり、地元の伝統や歴史と結びついています。これらの地域独自の行事は、鬼信仰を通じて地域社会のアイデンティティを築く一環として重要視されていました。鬼を祀る祭りは地域ごとに異なり、多様な形態を取りましたが、鬼信仰を祝福し、邪気を払う要素が共通して含まれていました。

鬼の守護神化

 鬼の信仰は、古代からの日本の民間信仰や神話に根付いており、鬼は悪霊や妖怪としてだけでなく、善霊や神としても存在します。彼らは人間の禍福を司り、畏れられるだけでなく敬われたり親しまれたりもしました。

 鬼の信仰は広く浸透し、家庭では鬼面瓦が屋根に飾られました。これは大きな瓦で、鬼の顔を模しており、魔除けや厄除けの象徴とされました。
 江戸時代以降、庶民の住宅に広まりましたが、古代の起源もあり、奈良時代以前の鬼面瓦も存在します。これらは鬼の特徴を持ち、古代の文様が施されています。

 地域によって鬼の信仰には異なる特色が見られます。青森県の岩木山では、鬼は山の神として崇拝され、人々の生活に恵みをもたらすと信じられています。岩木山には鬼神社があり、毎年8月には鬼祭りが行われ、鬼の面をつけた山伏が鬼の力を分け与えるとされます。
 同様に、鳥取県の大山では鬼は神使と見なされ、大山神社では鬼の面や像があり、毎年2月には鬼火祭りが行われます。これは鬼の面をつけた若者が鬼の火で厄を払う儀式です。
 千葉県の銚子市では、鬼は鬼神社の神として祀られ、毎年1月には鬼まつりが行われ、子供たちが鬼の面をつけて鬼のお札を配り、病気や災難を除けるとされています。

 

鬼の風刺

 また、風刺の対象や風変わりなキャラクターとして描かれることもありました。
鬼は風刺画の中でも登場が早く、江戸の中期頃には「瓢箪鯰」や「寿老人」などと並び、「鬼の寒念仏」が人気を博すようになりました。

 「鬼の寒念仏」は、大津絵の中でも最も有名で人気のある画題の一つです。この絵は、鬼が寒さに耐えながら念仏を唱える様子を描いており、その意味には複数の解釈があります。
 一つは、鬼が仏の教えに帰依して悔い改めるという教化的な意味。もう一つは、鬼が仏の教えに反する行為をしている風刺的な意味です。どちらの解釈にも、鬼と仏という対照的な存在の組み合わせによる皮肉やユーモアが感じられます。

 鬼の寒念仏は、鬼が仏の教えに従っているのか、それとも偽善的に唱えているのか、あるいは自分の罪を悔いているのかといった疑問を考えさせます。
 また、この画題は、人間の心の中に潜む鬼性を暴露したり、人間の苦しみや愚かさを笑ったりする要素が含まれています。鬼の寒念仏は、大津絵の特徴である教訓と風刺の両面を持つ画題と言えます。

 このような鬼の寒念仏は、多様なバリエーションが存在し、鬼の顔や服装、念仏の仕方、背景などが異なります。鬼の顔には赤や青、黒などの色が使われ、角の数や形も変化します。
 服装には僧衣や法被、着物や羽織などがあります。念仏の仕方も数珠を持って唱えたり、手を合わせて唱えたり、蓮華座に座って唱えたりします。背景には雪や氷、山や川、松や竹などが描かれます。これらの違いは、画家の個性や時代の流行、地域の特色などを反映しています。。

美術や文化への影響

 鬼の形象は江戸時代の美術や文化にも大きな影響を与え、鬼の面や絵画、彫刻が多くの芸術作品に登場し、鬼の特徴や性格が豊かに表現されました。
 鬼は、武士の出現によって、魔王の地位を失いましたが、その代わりに、人間の悲劇や哀切な運命を描く芸能の題材となりました。
 能や狂言では、鬼は人間の情念や憐憫をもつ存在として描かれ、鬼退治の物語では、鬼は武勇の対象とされました。鬼は、芸能を通して、民衆の感情や価値観に訴えかけました。

 また、鬼の伝説や物語は文学や演劇に取り入れられ、日本の文化において魅力的な要素となりました。特に、酒呑童子の話は江戸時代に大人気で、草双紙の中に酒呑童子説話を題材にした作品が多く見られました。
 酒呑童子は、最澄に比叡山から追い出されたという伝説があり、その物語は絵巻、能、歌舞伎、人形浄瑠璃、浮世絵、草双紙などの形で伝えられてきました。
 さらに、鬼は日常生活のさまざまな領域に入り込んでいきました。江戸時代には、絵本や小説、錦絵、芝居、玩具、さらには着物のデザインや装飾品にまで鬼が描かれたり彫刻されたりするようになりました。

 これらの事例から、江戸時代の日本社会において、鬼は邪悪な力や疫病、災害から守る守護神として広く信仰され、同時に風刺や風変わりなキャラクターとしても捉えられ、民間の物語や演劇に登場し、日常生活においても親しまれる存在であったことがわかります