古文書に見る鬼の類型
続日本紀
本項では、『続日本紀』という歴史書に記された、修験道の開祖とされる役小角(えんのおづぬ)、通称「役行者(えんのぎょうじゃ)」と、彼が使役したとされる「鬼」について、詳しくお話ししていきます。
まず、『続日本紀(しょくにほんぎ)』について、もう少し詳しくご説明します。
これは奈良時代に成立した、国の公式な歴史書、いわゆる「正史」です。『日本書紀』に続くものとして、文武天皇元年(697年)から桓武天皇10年(791年)までの約95年間にわたる出来事を、年表形式で記しています。
この史書の大きな特徴は、単に事実を羅列するだけでなく、当時の社会の様子や人々の考え方までも伝えようとしている点です。公式な文書や記録だけでなく、時には「世間伝云(せけんにいいつたえいう)」、つまり「巷でこんな噂がある」といった、いわゆる「世間のうわさ」を付記しているのです。
これは、当時の朝廷の編纂者が、人々の間でどのように物事が受け止められていたか、その世相までも歴史の一部として記録しようとした、非常に興味深い試みと言えます。
さて、その『続日本紀』に、役行者に関する最も古い確実な記録が残されています。
時代は文武天皇3年(699年)。大和の葛城山に住んでいた役君小角という人物が、韓国連広足(からくにのむらじひろたり)という人物から「妖惑」の罪で朝廷に訴えられ、伊豆大島に流されたと記されています。
この流罪の背景には、さまざまな説があります。最も有力なのは、呪術者としての小角の力が、朝廷にとって脅威となり、政治的に排除しようとしたという見方です。
また、弟子と伝わる韓国連広足が朝廷内で典薬頭(てんやくのかみ)という地位を得た後、師の力を妬み、朝廷に讒言(事実を曲げて告げること)したという話も伝えられています。
しかし、この事実の記事の後に続く、「世間伝云」と記された部分が、鬼研究者にとって極めて重要なのです。
「世間伝えて云く、小角は能く鬼神を役使し、水を取らせ、薪を採らせた。もし命に従わなければ、すなわち呪縛して、移動することを得ず。」
これは、当時の人々が役行者をどう見ていたかを、編纂者があえて正史の中に記録した、非常に貴重な史料です。
この記述で使われている「鬼神」という言葉は、現代の私たちがイメージするような、頭に角が生えた恐ろしい姿の「鬼」とは少し意味合いが異なります。
当時の言葉の用法から考えると、主に以下の二つの解釈が考えられます。
まず、葛城山という修験道の聖地にいた役行者が従えた存在ですから、山の神や精霊、あるいは、当時から畏怖の対象であった人ならざる存在を指していた可能性があります。
彼らは、人にはできないような超人的な力を持つとされ、水の運搬や薪集めといった重労働を担わせた、と伝えられています。
そしてもうひとつは、当時の朝廷は、支配下にある人々を「公民」として管理しようとしました。しかし、山奥や辺境の地に住み、独自の信仰や文化を持っていた人々は、朝廷の枠組みから外れた「異人」と見なされました。
こうした人々が、朝廷から見れば「まつろわぬ(従わない)」存在として「鬼」と呼ばれた可能性も否定できません。役行者は、まさにそうした人々を従えるほどの力を持っていた、と当時の人々は噂したのかもしれません。
そして、この「鬼神」に命じられたのは、「水を汲む」「薪を採る」といった、人々の日常生活に不可欠な労働です。
このことから、役行者が持つ力が単なる精神的なものではなく、人々の生活に直接的な利益をもたらす現実的なものとして認識されていたことが分かります。
さらに、言うことを聞かない場合は「呪縛(じゅばく)」、つまり呪文で縛りつけて動けなくしたという逸話は、役行者の強大な呪力を象徴しています。
この『続日本紀』の記述は、単なる流刑の事実だけでなく、「鬼神を使役する行者」という、当時の人々の認識を記録したことに大きな価値があります。
そして、この「世間のうわさ」こそが、後世の伝説の核となりました。
平安時代になると、仏教説話集『日本霊異記(にほんりょういき)』や、『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』では、この話がさらに膨らまされます。
役行者が鬼に命じて、葛城山と吉野の金峯山(きんぷせん)の間に橋を架けさせようとしたが、鬼が夜の作業を怠けたため、呪縛して動けなくした――というように、具体的でドラマチックな物語として語り継がれていきました。
つまり、『続日本紀』のたった一文の「うわさ」が、後の時代に「役行者=鬼を従える超能力者」というイメージを決定づけ、多くの伝説や説話、そして絵巻物や彫刻といった文化を生み出す源流になったのです。
この一節は、役行者という人物像が、奈良時代の人々にとって「鬼を従えるほどの力を持つ、規格外の存在」として実際に認知されていたことを示す、きわめて重要な史料と言えるでしょう。

