よく頂く質問集疑問におこたえします
- 武田信玄の本名は何ですか?
- 武田信玄の本名は「武田晴信(たけだ はるのぶ)」です。出家して法名を「信玄(しんげん)」と号したため、一般的には武田信玄と呼ばれます。もともとは「勝千代」と名付けられていました。
- 武田信玄はいつ生まれ、いつ亡くなったのですか?
- 生年は1521年(大永元年)、没年は1573年(元亀4年)です。享年は53歳です。
- 武田信玄の父親と母親はどんな人物ですか?
- 父は甲斐国守護の武田信虎、母は大井氏の娘で大井夫人と呼ばれました。信虎は厳格な武将で、信玄が家督を継ぐために隠居を迫られ、駿河に追放されています。
- 武田二十四将は本当に24人いたのですか?
- 実際には「二十四将」というのは後世の創作です。江戸時代に武田家家臣を顕彰するために作られたもので、当時の史料では人数は固定されていません。活躍した家臣はもっと多くいました。
- 武田二十四将の中で特に有名なのは誰ですか?
- 山県昌景、馬場信春、高坂昌信、内藤昌豊、武田信繁などが特に知られています。いずれも武田家を代表する重臣です。
- 山本勘助は実在するのですか?
- 山本勘助は実在した可能性が高い人物ですが、軍師としての活躍ぶりは後世の軍記物で誇張されている部分があります。確実な史料は少なく、謎が多い人物です。
- 山本勘助はどの合戦で活躍したのですか?
- 史料上は川中島合戦で戦死したとされます。ただし、その活躍は江戸時代の『甲陽軍鑑』などで脚色されており、事実と物語が入り混じっています。
- 高坂昌信はどういう人物ですか?
- 高坂昌信は武田家の譜代家臣で、もともとは足軽出身とされますが、頭角を現して重臣となりました。外交にも長け、上杉謙信との講和交渉などを担当しました。
- 川中島の合戦は全部で何回あったのですか?
- 通常は5回とされています。1553年から1564年までの間に、信玄と謙信の間で信濃川中島をめぐる戦いが繰り返されました。
- 川中島の合戦で有名な「一騎打ち」は本当にあったのですか?
- 信玄と謙信の一騎打ちは後世の創作で、史実では確認できません。ただし、両軍が激しく入り乱れたために、そのような場面を想像した物語が生まれたと考えられます。
- 武田信玄はなぜ上杉謙信と戦ったのですか?
- 信濃国の領有をめぐる争いが主な原因です。信玄が信濃に進出したことで、越後の謙信と利害がぶつかりました。
- 武田騎馬軍団は実在したのですか?
- 「騎馬軍団」という言葉は後世の表現で、実際には騎馬武者は全軍の一部にすぎません。馬を中心とした戦術を取ったことは確かですが、歩兵も多く含まれていました。
- 武田家の軍旗「風林火山」の意味は何ですか?
- 『孫子』の兵法書から取られた言葉で、「疾きこと風のごとく、徐かなること林のごとく、侵掠すること火のごとく、動かざること山のごとし」という意味です。信玄の軍略を象徴する標語でした。
- 武田信玄はなぜ父・信虎を追放したのですか?
- 信虎が強権的な政治を行い、国人や家臣との関係が悪化したためです。信玄は国の安定のために家督を譲るよう迫り、最終的に駿河へ追放しました。
- 武田信玄は内政でも功績を残しましたか?
- はい、信玄堤をはじめとする治水事業や、金山開発、道路整備などを進めました。また、分国法である『甲州法度之次第』を制定して法治を目指しました。
- 信玄堤は今も残っているのですか?
- 現在も山梨県甲府市の釜無川沿いに一部が残っています。国の史跡にも指定されており、治水技術の高さを示す貴重な遺構です。
- 武田信玄と織田信長の関係はどうだったのですか?
- 初めは同盟関係でしたが、後に敵対しました。1572年には信玄が西上作戦を開始し、三方ヶ原の戦いで徳川家康を破っています。信玄の死がなければ信長との大決戦もあったでしょう。
- 武田信玄と上杉謙信は仲が悪かったのですか?
- 川中島では戦いましたが、互いに武将として敬意を持っていたとも伝わります。謙信が信玄の死後、塩を送った逸話は有名です。
- 「敵に塩を送る」という言葉は本当にあった話ですか?
- 実際に謙信が塩を送ったかは確証がありませんが、後世の教訓話として広まりました。信玄が駿河・今川家と敵対して塩の供給を止められた際、謙信が交易を認めたという話です。
- 武田信玄と徳川家康はどのような関係でしたか?
- 最初は信玄が優勢でしたが、家康は織田信長と同盟して信玄に対抗しました。三方ヶ原の戦いでは家康が大敗しています。
- 武田信玄はなぜ西上作戦を始めたのですか?
- 織田信長・徳川家康の勢力が伸びてきたため、それを抑える目的でした。また、上洛して将軍・足利義昭を支援する意図もあったとされます。
- 武田信玄の死因は何ですか?
- はっきりとはわかっていませんが、病死とされます。結核や胃がん説が有力です。戦死ではありません。
- 武田信玄はどこで亡くなったのですか?
- 遠江国三方ヶ原から甲斐へ戻る途中、信濃国伊那谷(長野県阿智村)あたりで亡くなったと伝わります。
- 武田信玄の遺体はどこに葬られたのですか?
- 甲府市の恵林寺に葬られたとされます。ただし、遺体は秘匿され、一部は別の場所に埋葬されたという説もあります。