武田信玄公が統治した甲斐の国(現在の山梨県)には、彼の生涯や治世を物語る数多くの史跡や神社仏閣が残っています。それらをいくつかご紹介し、それぞれのいわれや信玄との関係を解説します。

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大泉寺(甲府市)甲府・甲斐国

大泉寺(甲府市)

 大泉寺は、武田信虎の菩提寺であり、信玄と信虎という親子関係の最終章を象徴する場所です。
 信虎の生涯と、その最期を甲斐で迎えたことの歴史的意味をさらに詳しく見ていきましょう。

武田信虎の功罪:甲斐国統一と追放
 武田信虎は、戦国時代の甲斐国を統一した傑出した武将です。
 家臣団をまとめ上げ、周辺の国衆との戦いを勝ち抜くことで、武田家の領土を拡大しました。
 しかし、その統治は苛烈を極め、家臣や領民からは次第に反発を買うようになります。
 また、長男の晴信(信玄)ではなく、弟の信繁を後継者にしようとしたという説もあり、家中の不穏な空気が高まっていました。
 天文10年(1541年)、信虎は今川義元のもとへ赴いた際、信玄と重臣たちの画策により、甲斐への帰国を阻まれます。
 この追放劇は、信玄の冷徹な合理性を示すものとして知られています。
 信玄は、父の苛政が武田家の存続を危うくすると判断し、「家のため」という大義のもと、最も非情な決断を下しました。

信虎の流浪と再評価
 甲斐を追われた信虎は、駿河の今川氏、そして今川氏が滅亡した後は徳川家康の庇護のもとで、不遇な生活を余儀なくされました。
 しかし、近年では、信虎が長寿を全うした背景には、追放後も武田家から一定の経済的支援が続いていたという説が唱えられています。
 信玄が父を完全に切り捨てることはせず、外様の家臣や周辺勢力への配慮として、形式的な追放にとどめた可能性が指摘されています。
 信玄が信虎を甲斐に呼び戻そうとしたのは、病に倒れる直前の元亀4年(1573年)頃とされています。
 この行動は、単なる「親子の和解」という美談だけでは片付けられません。
 当時、武田家の後継者である勝頼は、信玄の側室の子であり、武田家の嫡流ではないという血筋の弱点がありました。
 信玄は、甲斐国での信望が高い信虎を呼び戻すことで、勝頼の当主としての権威を補強し、家臣団の結束を固めようとしたと考えられています。
 これは、信玄が最後まで武田家の将来を案じていたことを示す、政治的な決断でした。

大泉寺:物語の終着点と歴史的意義
 信玄の死後、信虎は甲斐への帰国を果たし、甲府の大泉寺で余生を過ごしました。
 そして、天正10年(1582年)、武田家が織田・徳川連合軍によって滅亡した年に、90歳という長寿を全うし、この地でその生涯を閉じました。
 大泉寺は、信虎の墓所と位牌が安置されている寺院です。
 信虎が追放された故郷で、武田家滅亡という悲劇の年に亡くなったことは、歴史の皮肉であり、同時に信虎の波乱の生涯の終着点として、深い感慨を与えます。
 大泉寺は、信玄が晩年に父との関係を見つめ直し、親子の和解が図られたとされる場所です。
 それはまた、信玄という人物が、冷徹な為政者でありながらも、人間的な感情や家族への思いを捨てきれなかったことを物語っています。
 信玄の人生は、父の追放という非情な決断から始まり、父を故郷に迎えるという複雑な行動で締めくくられました。
 
 大泉寺は、この壮大な物語の最終章を静かに伝える、貴重な歴史的空間なのです。
 訪れることで、信玄の人間的な深み、そして戦国武将たちの複雑な心情をより深く感じることができるでしょう。 

住所 :山梨県甲府市古府中町5015
公共交通機関でのアクセス: 電車と徒歩を組み合わせる方法が一般的です。
  JR甲府駅からのアクセス :JR甲府駅北口から徒歩で向かうことができます。所要時間は約20分です。バスを利用する場合は、甲府駅北口から路線バスに乗車し、適切なバス停で下車してください。
 車でのアクセス: 車で向かう場合は、中央自動車道の甲府昭和インターチェンジ(IC)を利用するのが便利です。
 甲府昭和ICからのルート :インターチェンジを降りた後、甲府市街地方面へ進みます。国道20号線を経由し、武田神社方面へ向かう道を進みます。大泉寺は武田神社の東側に位置します。所要時間は約20分です。
  駐車場: 大泉寺には参拝者用の駐車場が完備されています。