武田信玄公が統治した甲斐の国(現在の山梨県)には、彼の生涯や治世を物語る数多くの史跡や神社仏閣が残っています。それらをいくつかご紹介し、それぞれのいわれや信玄との関係を解説します。

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東光寺(甲府市)甲府・甲斐国

東光寺(甲府市)

 戦国時代の英雄、武田信玄公が治めた甲斐の国(現在の山梨県)に今も息づく、武田家ゆかりの地を巡る旅へと皆様をご案内したいと思います。

 東光寺が武田信玄の生涯において、いかに悲劇的な舞台であったかを、諏訪頼重の死と武田義信の悲劇という二つの出来事を通じて、さらに詳しく解説します。

東光寺:信玄の非情と悲劇を物語る場所
 甲府市にある東光寺(とうこうじ)は、臨済宗の寺院で、武田信玄公の人生における、最も痛ましい出来事が起きた場所として知られています。
 この寺は、信玄の冷徹な決断と、その決断によって引き起こされた悲劇的な家族の物語を今に伝えています。

諏訪頼重の死:非情な決断の始まり
 東光寺が歴史の表舞台に登場するのは、武田信玄の信濃侵攻の初期段階です。
 信玄は、信濃の有力国衆である諏訪頼重(すわよりしげ)と同盟を結んでいました。
 諏訪氏は、信濃の要衝を押さえており、信玄は、彼らとの同盟によって後顧の憂いを絶ち、北信濃への侵攻に専念していました。
 しかし、信玄は天下統一という大義のため、この同盟を破るという非情な決断を下します。
 天文11年(1542年)、信玄は突如として諏訪頼重に攻め込み、これを滅ぼしました。
 信玄に敗れた諏訪頼重は、甲斐の国へと連行され、この東光寺に幽閉されました。
 そして、わずか数日後、この寺で自害したと伝えられています。
 この出来事は、信玄の冷徹なリーダーシップを物語っています。
 彼は、自らの夢のためには、たとえ同盟相手であっても、容赦なく切り捨てることをためらいませんでした。
 この非情な決断こそが、後の武田家の運命を決定づけることになります。
 信玄は、諏訪頼重の娘を側室とし、その間に生まれた子が、後の武田家当主となる勝頼(かつより)でした。
 東光寺は、信玄が天下統一という大義のために、血縁や信頼関係を犠牲にし、冷酷な決断を下した、その始まりの場所となったのです。

武田義信:悲劇の嫡男
 武田義信は、信玄の嫡男として生まれ、将来を約束された存在でした。
 彼は、信玄が今川家と結んでいた同盟を強固なものにするため、今川義元の娘である嶺松院(れいしょういん)を正室に迎えています。
 義信は、武将としても優れた才能を持ち、父に代わって戦場でも活躍しました。
 しかし、信玄が天下統一の夢を追う中で、状況は一変します。
 信玄は、上杉謙信や織田信長といった強敵と戦う一方で、外交と軍事によって領土を拡大しようとしました。
 その戦略の一つとして、彼は今川家との同盟を破棄し、駿河侵攻を決断します。

親子の対立:信玄の冷徹な決断
 義信は、この駿河侵攻に強く反対しました。
 彼にとって、今川家は妻の生家であり、また、長年武田家を支えてきた重要な同盟相手でした。
 義信は、信玄の冷徹な決断が、これまでの外交関係をすべて台無しにし、武田家を孤立させると考えました。
 しかし、信玄は、天下統一という大義のためには、義信の意見を退けることをためらいませんでした。
 信玄にとって、もはや今川家との同盟は、天下統一の障害でしかありませんでした。
 この対立は、信玄の冷徹な一面を物語る悲劇的な出来事です。
 信玄は、義信の反対を許さず、彼を甲府の東光寺に幽閉しました。そして、義信は幽閉の末、自害したとされています。
 この親子の対立は、信玄が、私的な感情や肉親との絆よりも、武田家の未来と天下統一という大義を優先したことを示しています。
 それは、信玄が戦国の世を生き抜くための、非情なリーダーシップの表れでした。

住所: 山梨県甲府市東光寺3丁目7-32
アクセス: 電車:JR身延線「善光寺駅」から徒歩約15分。 バス:JR甲府駅南口バスターミナルから、山梨交通バス「東光寺循環」または「酒折経由石和温泉行き」に乗車し、「東光寺」バス停で下車。
    車:中央自動車道「甲府昭和IC」から約20分。駐車場があります。
東光寺は、甲府市街地からもほど近く、アクセスしやすい場所にあります。歴史的な背景を感じながら、静かな時間を過ごすことができるでしょう。