武田信玄が長年にわたり覇権を争った信濃国(現在の長野県)には、彼の軍略や生涯を物語る重要な史跡が多く残っています。ここでは、特に重要な場所をいくつかご紹介します。

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 高遠城址公園(伊那市)信濃国

 高遠城址公園(伊那市)

 長野県伊那市に位置する高遠城(たかとおじょう)は、武田信玄の信濃侵攻における最重要拠点のひとつであり、その歴史は単なる城の攻防を超え、信玄の戦略眼と、武田家臣団の結束力を物語っています。
 この城は、信玄が天下統一の夢を追う上で、いかに緻密な戦略を練っていたかを今に伝える貴重な史跡です。

高遠城:信玄の信濃侵攻の要
 長野県伊那市に位置する高遠城(たかとおじょう)は、武田信玄が信濃国を支配する上で、極めて重要な拠点でした。
 この城は、信濃の南部に位置し、甲斐から信濃へ向かう交通の要衝を押さえる役割を担っていました。
 信玄は、天文16年(1547年)に信濃侵攻を開始し、次々と有力な国衆を降伏させていきました。
 高遠城もまた、信玄の侵攻ルート上にあり、天文21年(1552年)に信玄が攻略し、武田氏の支配下に置かれました。
 信玄は、高遠城の戦略的重要性を認識しており、武田家臣団の中でも特に信頼の厚い人物を城代として配置しました。
 信玄の弟である武田信廉(のぶかど)が城代を務めていた時期もあり、高遠城は武田氏の南信濃支配の拠点となりました。

高遠城の戦略的価値:信玄がなぜこの城を欲したのか
 信玄が信濃侵攻を開始した天文16年(1547年)頃、信濃国は有力な国衆が割拠する状態でした。
 その中で、高遠城は以下の理由から、信玄にとって非常に価値のある城でした。
1. 甲斐から信濃への玄関口:
 高遠城は、武田氏の本拠地である甲斐から信濃へ入るための主要な街道(伊那街道)を押さえる位置にありました。
 この城を支配下に置くことは、信濃への兵力や物資の輸送を円滑にし、長期的な信濃支配の基盤を築く上で不可欠でした。
2. 南信濃支配の要:
 高遠城は、信濃南部の中心地であり、この城を拠点とすることで、信玄は諏訪や木曽方面への影響力を強めることができました。
 また、遠江(現在の静岡県西部)や三河(現在の愛知県東部)方面への備えとしても機能しました。
3. 堅固な山城:
 高遠城は、丘陵を利用して築かれた山城であり、天然の要塞としての防御力を備えていました。
 信玄は、この地の利を最大限に活かし、さらに城を改修・強化しました。近年の研究では、信玄が用いた「武田流築城術」が、この高遠城にも色濃く反映されていたことが明らかになっています。
 この築城術は、堀や土塁を多重に配置し、敵の侵入を困難にするもので、信玄の軍事的才能の一端をうかがい知ることができます。

高遠城代:信玄が信頼を置いた家臣たち
 信玄は、高遠城の城代に、武田家臣団の中でも特に有能で信頼の厚い人物を配置しました。
 これは、単に城を任せるだけでなく、その地域の統治を委ねるという、信玄の人材登用術の巧みさを示しています。
 武田信廉: 信玄の弟である武田信廉は、城代を務めた人物の一人です。彼は、兄に似ていたことから、信玄の「影武者」としても知られています。
 信廉を高遠城代に置いたことは、信玄がこの城をどれほど重要視していたか、そして身内である信廉にこの地の統治を任せることで、支配体制をより強固にしようとしたことがわかります。
 仁科盛信: 信玄の五男である仁科盛信も、後に高遠城主となりました。彼は、武田家滅亡の際に織田信忠の大軍を相手に壮絶な最期を遂げます。彼の死は、信玄が築き上げた武田家臣団の、揺るぎない忠誠心を象徴するものとして、今も語り継がれています。

信玄の築城技術と戦略的思考
 高遠城は、信玄の優れた築城技術と、戦略的な思考を今に伝える史跡です。
 〇縄張り(設計)の巧妙さ:
 高遠城は、丘陵を利用して築かれた山城であり、自然の地形を巧みに利用した堅固な防御力を備えていました。
 信玄は、堀や土塁を多重に配置し、敵が簡単に攻め入ることのできない構造を築き上げました。
 〇「水の手」の重要性:
 城内の水源を確保する「水の手」も重視されました。これにより、長期の籠城戦にも耐えられる堅固な要塞となりました。
これらの特徴は、信玄が軍事的な才能だけでなく、土木技術や建築学にも深い知識を持っていたことを示唆しています。

武田家の悲劇的な終焉と高遠城の攻防
 信玄の死後、武田家は息子の勝頼が継ぎますが、織田信長と徳川家康の連合軍の猛攻にさらされます。
 そして、高遠城は、武田家最後の戦いの一つとして、歴史にその名を刻むことになります。
 天正10年(1582年)、織田信長の嫡男である織田信忠(のぶただ)が率いる大軍が高遠城に攻め寄せました。
 当時の城主は、信玄の甥である仁科盛信(にしな もりのぶ)でした。
 信長は、城を明け渡せば命は助けると降伏を促しますが、盛信はこれを拒否し、徹底抗戦の構えを見せました。
 高遠城の兵力は、織田軍に比べて圧倒的に劣っていましたが、城兵たちは、武田家への忠誠を胸に、果敢に戦いました。
 信忠軍は、大砲まで用いて城を攻め立て、ついに高遠城は落城しました。
 盛信をはじめとする城兵たちは、壮絶な最期を遂げました。
 この高遠城の攻防は、信玄が築き上げた武田家臣団の忠誠心と、その悲劇的な終焉を象徴しています。

 高遠城は、信玄の信濃侵攻の要であり、彼の領土拡大の歴史を物語る場所です。
 しかし、それ以上に重要なのは、この城が武田家の最期を語る舞台となったことです。
 信玄の死後、家臣たちは、信玄が築いた絆と忠誠心によって、最後まで武田家を守ろうとしました。
 高遠城の壮絶な攻防は、信玄が遺したものが、単なる領土や財産ではなく、人々の心に深く刻まれた誇りと忠誠であったことを物語っています。

 現在、高遠城跡は高遠城址公園として整備され、春には桜の名所として知られています。
 この場所を訪れることは、信玄の生涯をたどる旅であると同時に、戦国時代の武将たちが命を懸けて守ろうとしたもの、そしてその悲劇的な結末を肌で感じることができる貴重な体験となります。

住所
長野県伊那市高遠町東高遠2300-1

公共交通機関でのアクセス
電車とバスを利用 JR飯田線伊那市駅で下車し、徒歩で伊那バスターミナルへ移動します。
伊那バスターミナルからJRバス高遠線に乗車し、約25分で「高遠駅」バス停に到着。バス停からは徒歩で約20分です。
また、JR中央本線茅野駅からもバスが出ており、高遠まで約55分で到着します。
車でのアクセス
中央自動車道から
 伊那IC:国道361号を経由して約30分です。
 諏訪IC:国道152号を経由して約50分です。
駐車場: 公園には駐車場がありますが、特に桜の開花時期には臨時駐車場が設けられます。
さくら祭り期間中は有料となり、非常に混雑するため、公共交通機関の利用も検討してください。