駿河国(現在の静岡県中部・東部)と遠江国(現在の静岡県西部)は、武田信玄が天下統一の夢を追う中で、軍事と外交の面で深く関わった地域です。

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龍潭寺(浜松市)駿河国と遠江国

龍潭寺(浜松市)

 武田信玄の遠江侵攻と、その際に敵対した井伊氏との関係を象徴する龍潭寺について、その歴史と信玄との深い関わりを詳しく解説します。

龍潭寺:信玄の遠江侵攻と井伊氏の抵抗を物語る古刹
 静岡県浜松市に位置する龍潭寺(りょうたんじ)は、戦国時代から江戸時代にかけて活躍した、遠江の有力国衆・井伊氏の菩提寺です。
 この寺は、武田信玄が天下統一の夢を追う中で、徳川家康の勢力基盤である遠江を攻めた際の、地元勢力との関わりを物語る重要な歴史の舞台となりました。
 龍潭寺の物語は、信玄の軍事的な才能だけでなく、彼が巻き起こした戦乱が、いかにして地元の人々の運命を翻弄したかを今に伝えています。

井伊氏の変遷:
 今川から徳川へ 井伊氏は、もともと今川氏の家臣であり、遠江の有力な国衆でした。
 しかし、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に討たれるという歴史的な大事件が起こると、今川家は急速にその勢力を失いました。
 この混乱の中で、井伊氏は、生き残りをかけて、後の天下人となる徳川家康に仕えるようになります。
 井伊氏は、家康の忠実な家臣として、徳川家の拡大に大きく貢献しました。
 特に、後の「井伊の赤鬼」として恐れられる井伊直政(いいなおまさ)は、家康の天下統一に不可欠な存在となりました。
 龍潭寺は、井伊氏の歴史、そして彼らが戦国の世を巧みに生き抜いた軌跡を今に伝える場所なのです。

信玄の遠江侵攻と井伊氏の抵抗
 元亀3年(1572年)、信玄は上洛(京都進出)を果たすため、徳川家康が治める遠江へと侵攻を開始しました。
 信玄は、三方ヶ原で徳川軍を完膚なきまでに打ち破り、家康を浜松城へと追い詰めます。
 しかし、信玄の目的は、家康の首を取ることだけではありませんでした。
 彼は、遠江を完全に支配し、家康の勢力基盤を奪うことで、家康を孤立させ、上洛への道を確固たるものにしようとしました。
 この信玄の侵攻に対し、井伊氏をはじめとする遠江の国衆は、徳川方として武田軍と激しく戦いました。
 龍潭寺周辺もまた、戦乱の渦に巻き込まれました。
 井伊氏は、信玄の圧倒的な軍事力の前に苦戦を強いられましたが、彼らは、徳川家への忠誠を胸に、果敢に抵抗を続けました。

龍潭寺が物語る戦乱の歴史
 龍潭寺は、信玄の遠江侵攻の歴史を物語る、いくつかの重要な要素を持っています。
 〇 井伊氏の菩提寺としての役割:
 井伊氏は、戦乱で命を落とした一族や家臣の霊を、この寺で弔いました。
 龍潭寺は、井伊氏の歴史、そして彼らが経験した苦難と悲劇を今に伝えています。
 〇 信玄の侵攻の痕跡:
 寺の周辺には、信玄の軍勢が通ったとされる道や、戦いの痕跡が残されています。
 これらの痕跡は、信玄の侵攻が、この地の歴史にいかに深い爪痕を残したかを物語っています。
 信玄は、武力によって遠江を制圧しようとしましたが、井伊氏をはじめとする地元勢力の抵抗は、彼の思惑を阻みました。
 信玄が病に倒れた後も、武田軍と徳川軍の攻防は続きました。
 最終的に武田家は滅亡しますが、井伊氏は徳川家とともに、戦国の世を生き抜きました。
 龍潭寺は、信玄が遠江を攻めた際の地元勢力との関わりを物語る場所です。
 信玄は、徳川家康の勢力基盤である遠江を攻めることで、家康を孤立させようとしました。
 しかし、井伊氏もまた、信玄の侵攻に抵抗した遠江の武将の一人であり、この地で起きた戦乱の歴史を今に伝えています。

 この寺を訪れることは、信玄の軍事的な才能だけでなく、彼が巻き起こした戦乱が、いかにして地元の人々の運命を翻弄したか、そして彼らがどのようにして困難を乗り越えたかを、肌で感じることができる貴重な体験なのです。

住所: 静岡県浜松市浜名区引佐町井伊谷1989
公共交通機関でのアクセス: JR浜松駅から遠鉄バス「奥山」行きに乗り、「神宮寺」バス停で下車後、徒歩約10分です。
              天竜浜名湖線「金指駅」からタクシーで約5分です。
車でのアクセス ? 新東名高速道路「浜松いなさIC」から車で約10分です。 東名高速道路「三ヶ日IC」から車で約20分です。
  無料駐車場がありますが、台数に限りがあるため、満車の場合は周辺の駐車場を利用してください。