武田二十四将の紹介信玄の逸話・伝説



武田二十四将の紹介
さて、武田信玄と聞いて、皆さんは何を思い浮かべますか?
「風林火山」の旗印、あるいは越後の龍・上杉謙信との川中島の戦い、そして天下統一を目前に病に倒れた悲運の最期かもしれません。
しかし、信玄の強さの秘密は、彼自身の卓越した才能だけではありませんでした。
その強大な軍団を支え、数々の武功を挙げた猛将たちがいました。
彼らは「武田二十四将」と呼ばれています。
この「武田二十四将」に焦点を当て、彼らがどのように信玄を支え、武田家の隆盛を築き上げたのか、その実像に迫りたいと思います。
「武田二十四将」という呼称の真実
まずは、この「武田二十四将」という呼称についてお話ししましょう。
実は、この「二十四将」という呼び方は、信玄が公式に二十四人を選んで任命したわけではありません。
これは後世に作られた言葉です。
江戸時代に入って、武田家を題材にした軍記物や、浮世絵の題材として、信玄を支えた有力な家臣たちが二十四人としてまとめられたのが始まりです。
このリストにはいくつかのバリエーションがありますが、おおむね共通する顔ぶれがいます。
この「創作」という点を踏まえても、「武田二十四将」という言葉が今日まで語り継がれているのは、それだけ彼らが突出した存在であったことを物語っています。
彼らは単なる勇猛な武将の集まりではありませんでした。
武田家臣団は大きく分けて、親類衆、譜代家臣、そして外様家臣に分かれます。
〇 親類衆:
信玄の弟である武田信繁や、信玄の甥にあたる穴山信君など、信玄と血縁関係にある一族です。
彼らは一門として、武田家の屋台骨を支え、家臣団の結束を固める役割を担いました。
〇 譜代家臣:
馬場信春や山県昌景、内藤昌豊など、武田家に古くから仕える家臣たちです。
彼らは代々武田家に仕え、絶大な信頼を寄せられていました。
彼らの忠誠心は、武田家を支える上で不可欠なものでした。
〇 外様家臣:
真田幸隆や高坂昌信のように、信濃や駿河を攻略する過程で、信玄に帰順した国衆たちです。
信玄は彼らの才能を高く評価し、旧来の家臣と同じように重用しました。
このように、武田二十四将は、血縁、家柄、そして才能によって、多様な人材で構成されていました。
信玄は、それぞれの出自や強みを理解し、適材適所で彼らを配置することで、強固な組織を作り上げました。
武田二十四将の武勇と知略:主要人物の深掘り
それでは、特に重要な働きをした武将を何人かご紹介し、彼らの活躍をさらに深く見ていきましょう。
1. 武田家の副将:武田信繁
まずは、信玄の弟、武田信繁です。
兄の信玄が当主になったとき、信繁は家督を譲り、兄を支え続けました。
この兄弟関係は、信玄と信繁の間に深い信頼関係があったからこそ成り立ったものです。
信繁は武勇に優れるだけでなく、教養にも深く、『信玄家法』の制定にも関わったとされています。
これは、戦国時代の法律書として非常に先進的なものであり、信玄が目指した国家統治の理想がうかがえます。
そして、信繁の最期は第四次川中島の戦いでした。敵陣を突破し、兄の窮地を救うために殿(しんがり)を務め、壮絶な討ち死にを遂げました。
この信繁の死は、信玄にとって大きな痛手であり、この戦いの勝利に影を落としました。
信玄が信繁の死を悼んで詠んだ歌が残されています。
「おもひきや、武田家の柱、散る花の、あたらあだなる命ともがな」…武田家の柱である信繁が散ったことを惜しむ、痛切な思いが込められています。
2. 不死身の鬼美濃:馬場信春
続いては、馬場信春です。
彼は、武田四天王の一人としても数えられます。
特に注目すべきは、彼が参戦した合戦において、一度も負傷したことがないという逸話です。
これは、単に運が良かっただけではありません。
彼は常に冷静に戦況を分析し、「危険を予知する能力」に長けていたのです。
撤退戦では、自ら殿を務め、部隊を完璧に撤退させることに長けていました。
信玄の死後、信春は信玄の息子である勝頼を支え続けました。
そして、長篠の戦い。武田軍が壊滅的な打撃を受けたこの戦いで、彼は最後まで勝頼をかばい、撤退路を確保するために奮戦しました。
最期は、織田・徳川連合軍に囲まれ、壮絶な討ち死にを遂げました。
このとき、彼は「武田家の武士は、最後の最後まで諦めない」という気概を示したのです。
3. 赤備えの猛将:山県昌景
山県昌景は、馬場信春と同じく武田四天王の一人です。
彼の部隊は、全身を朱色で統一した「赤備え」で知られ、その勇猛さは敵から「山県昌景の赤備えが来たら、逃げるが勝ち」と恐れられました。
彼は信玄の側近として、数々の合戦で武功を立て、信玄からの信頼も厚かったと言われています。
彼は、その武勇だけでなく、政治的な能力も持ち合わせていました。
特に、信濃や駿河の平定後、その地の統治を任されることが多く、内政手腕にも長けていました。
しかし、その最期はやはり長篠の戦いでした。
彼は、鉄砲隊による集中砲火を受けながらも、果敢に敵陣に突撃しました。
その壮絶な最期は、武田軍の武士の鑑として、後世に語り継がれています。
4. 知略の真田、その祖:真田幸隆
武勇に優れた武将が多い中で、真田幸隆は特に知略に優れた武将でした。
信濃の小国衆であった彼は、武田家が信濃へ侵攻した際に、その才能を見出され、家臣となりました。
彼は武田軍の信濃攻略において、謀略戦で大きな貢献をしました。
例えば、信濃の要衝である砥石城を攻めた際、武田軍は一度大敗を喫しました。
しかし、幸隆は城にいる内通者を利用し、巧みな策略で砥石城を無血開城させました。
信玄は、この幸隆の才能を高く評価し、「我が両眼」とまで評しました。
幸隆の築いた地盤が、後に息子である昌幸、そして孫の幸村の活躍へと繋がっていきます。
真田家が、関ヶ原の戦いで徳川の大軍を相手に奮戦できたのも、この幸隆の知略の系譜があったからに他なりません。
ご紹介した以外にも、攻めの高坂昌信や、内政に力を発揮した小山田信茂、そして戦場の華と謳われた原虎胤など、個性豊かな武将たちが信玄を支えました。
彼ら武田二十四将は、単なる武力の集団ではなく、それぞれが異なる役割を担い、信玄の戦略を支える「チーム」でした。
信玄は、家臣の才能を信じ、適材適所で起用することで、強固な組織を作り上げました。
そして、彼らが信玄に対して絶対的な忠誠を誓ったのは、信玄が彼らの才能を最大限に引き出し、尊重したからに他なりません。
本日、私がお伝えしたかったことは、「武田二十四将」という後世に作られた言葉の裏側にある、武田家臣団の実像です。
彼らの活躍を知ることは、信玄の強さの秘密を解き明かす鍵となります。