桃太郎の起源



岡山発祥説の真偽~岡山の桃太郎は昭和生まれ

 岡山だとされる根拠は、「崇神天皇の時代に大和から吉備(現岡山県)へ征討におもむいた吉備津彦が桃太郎である」とか「岡山県にあった山城の鬼ノ城が鬼ヶ島である」とか「吉備津彦が鬼ノ城を本拠とした百済王子・温羅を討ったという吉備津神社の伝承が、桃太郎物語として語り継がれた」とか様々なものがあり、どれもなるほどと思わせるようなものばかりです。

 しかしながら、「岡山の桃太郎」は、実は「昭和生まれ」であり、決して神話の時代から語り継がれてきたものではなかったようなのです。

 岡山の桃太郎の登場は、昭和のはじめごろ、岡山在住の塑像家である難波金之助氏が『桃太郎の史実』という本を出版し、桃太郎岡山発祥説を唱えたことによります。

 この説は、前述のように「崇神天皇の時代に大和朝廷から吉備(岡山県)へ征討におもむいた四道将軍の一人、吉備津彦が桃太郎のモデル」とするものでした。具体性があり何やら説得力も感じるような設定です。

 しかしながら、崇神天皇の伝説が記述されている『日本書紀』や『古事記』には、「四道将軍の一人として吉備津彦命を任命」という記録はあるものの、実は吉備地方への侵略や征服の記述はないそうです。
こんなことから、この説は当初はあまり注目を浴びなかったのでした。

 ところが、戦後の昭和30年代の後半になって、一気に広まったのです。きっかけは昭和37年(1962)に岡山県で開かれた国民体育大会、いわゆる「国体」でした。

岡山桃太郎像 国体の開催に際し、当時の三木行治知事がこの難波氏の説に着目し、「岡山は桃太郎で行こう」ということで桃太郎を県のシンボルに活用し、行政側の全面的な支援を受けて「桃太郎の故郷は岡山!」が全国的にアピールされたわけです。
 今でいうところの「地域おこし」の宣伝戦略として桃太郎が持ち出されたというわけです。

 加えて、黍団子の「黍(きび)」と岡山の旧名「吉備(きび)」が、音が同じであることや、もともと岡山は、桃の栽培が盛んだったことも幸いし、この「狙い」は、見事に的中、観光客が増え、桃と「きびだんご」が岡山名物となり、やがて岡山駅の駅前には立派な桃太郎像が建立されるにいたったのでした。