大月桃太郎の起源
大月の桃太郎は、いったいいつ頃から言い伝えられていたのでしょうか。
昭和12年(1937年)に講談社から発行された絵本『桃太郎』には、中田千畝による「桃太郎物知り帖」が集録されており、ここで全国の桃太郎が紹介されています。
そして、桃太郎の生誕地の一つとして「山梨県北都留郡」(昭和20年代まで大月市付近は北都留郡に属していた)が、以下のように挙げられているのです。
「山梨縣北都留郡 有名な猿橋(地名)は猿、鳥澤(地名)は雉、犬目(地名)は犬、これが桃太郎の従者が出た所で、桃太郎は桂川べりの農家で生まれたというのです。猿橋驛では『桃太郎もち』など賣つてをります。」
これよりさかのぼれる資料というと、明治36年(1903年)刊行の『風俗画報』第272号があげられます。
ここに集録された「入峡記」は、著者の野口勝一が当時開通したての中央線に乗り、沿線のまちの風俗について、甲府駅まで書き記したものですが、ここには、「犬鳥猿相連なるが故に、昔譚桃太郎鬼ヶ島道中に似たりとして、昔より狂歌を伝ふ」という記述があります。
ただし、狂歌そのものは、ここでは記されていないため、どのような歌だったのかよくわかりません。
この地域で教員を勤めていた石井深は『大月市の歴史と民話』のなかで、「ある本に桃太郎 ここらで供を連れにけん 犬目鳥沢猿橋の宿という歌が伝わっている」(石井1980)と紹介しており、野口のいう狂歌との関係が注目されます。
ところで、前述の「桃太郎物知り帖」であげられた「桃太郎もち」とは、大正時代に桃太郎伝説をモチーフに猿橋名物として、駅前旅館「桂川館」により猿橋駅で販売されていた菓子で、包装紙には和歌が記されていたようです。
それを見ると、「桃太郎 是より友を つ連伴らん 犬目鳥澤猿橋の里」と判読でき、字余りではありますが、石井の紹介した歌とかなり似ていることがわかります。
このため、野口勝一のいう、「昔より伝わる狂歌」が「桃太郎もち」の包装紙に書かれていた和歌と同一のものである可能性があります。
もしそうであれば、すでに明治期にはこの地域と桃太郎の関係が取り上げられていたということがわかります。
ただ、「昔より」がどこまで遡れるかは不明です。(なお、この桃太郎もちは一度販売終了していたものの、2017年になり再販売されています。)
もうひとつ、興味深い錦絵があります。
明治23年(1890)の菱川春宣が描いた桃太郎の錦絵(夜伽桃太郎)には、背景に明らかに富士山とわかる山が描かれています。
富士山が描かれているからといってこの地が大月だと即断するわけにはいきませんが、少なくとも、この錦絵は、大月桃太郎物語が明治までその出自をたどりえる可能性を示すという意味において、貴重な絵画といえるでしょう。
そして、当然、伝説が文字化・絵画化される以前には、民話として口承されていた時代が、相当に長く続いていたはずです。