天狗の正体
中国の流星説
天狗の起源とその進化は、古代中国から日本への伝播と日本独自の信仰や文化とが融合した結果として形成されました。
「天狗」とは、古代中国の物の怪で、流星または彗星の尾の流れる様子が犬に似ていることから、「天の狗」、すなわち「天狗」と呼ばれました。
中国の『史記』『漢書』『晋書』には天狗の記事が載せられており、天狗が大きな流星のように描かれ、その音は雷に似ていると記されています。
これらの記述は、天狗が天空を飛び回りながら災禍をもたらす存在として恐れられていたことを示しています。
天狗の存在は、自然現象や天体現象を説明するための手段としても使用されました。
例えば、流星や彗星が大気圏に突入し、地表近くまで落下した際には、その轟音が天狗の吠える声とされました。
これは、古代の人々が理解できない自然現象を、彼らが知っている存在、つまり天狗に結びつけて説明しようとした結果であると考えられます。
天狗は古代中国の文化において重要な役割を果たしていたことがわかります。
その存在は、人々が自然現象を理解し、それに対処するための一助となりました。
また、天狗のイメージは、その後の日本の文化にも大きな影響を与え、多くの伝説や物語に登場するようになりました。
日本の古代史を記録した『日本書紀』には、天狗という存在が初めて登場します。
この記述は舒明天皇9年(西暦637年)の2月に関するもので、その時期に大きな流れ星が東から西へと流れ、雷に似た音が鳴り響いたとされています。
この現象に対して、人々は「流れ星だ!」と騒いでいました。
しかし、その時、中国(唐)から帰国した僧が異なる見解を示しました。
彼は、「流れ星ではない。これは天狗(あまつきつね)だ。」と述べたのです。
この僧は、608年に派遣された第2回遣隋使として隋に入り、24年間仏教と易学について学んだ後、632年に日本に帰国していました。
天狗という言葉は、古代の中国で流れ星を「天狗(てんこう)」と呼んでいたことが、日本へ伝わってきたと考えられています。
しかし、流れ星を天狗と呼ぶ風習は、日本では定着しなかったようで、その後、平安時代(794年~1185年)中期の970年代頃に成立した「宇津保物語」に記されるまでの間、天狗のことを書いた書物はなく、日本書紀の「天狗=流れ星」という中国の考え方は定着しなかったようです。