八王子千人同心

八王子千人同心 時代を駆け抜けた誠の武士達

八王子千人同心の生き様 千人同心の歴史


武田氏 北条氏の滅亡

甲府城 「八王子千人同心」の根源は、甲斐の国にあります。

 当時の甲斐の国は武田家の治世下にあり、この武田家の中に、小人頭と呼ばれる役職がありました。九人の小人頭が各三十人ずつの小人・中間を預かり、武田信玄の居館であるつつじヶ崎館を交代で警備に当たっていたのでした。

 また、山国である甲斐は、武蔵・信濃・駿河・相模と接しているため、その国境には九つの「境口」と呼ばれる監視拠点が設けられており、ここで監視する役目も担っていたのでした。

 しかしながら、武田信玄の死により跡を継いだ武田勝頼は、三河まで進出したものの織田信長との天正3年(1575)長篠の戦いで大敗北を喫し、その後は次第に後退し、ついに天正10年(1582)姉婿である木曽義昌の離反に端を発して織田軍の侵攻を受け、3月11日天目山下の田野にて夫人、嫡男信勝等と共に自刃し、ここに甲斐武田氏は滅亡しました。

 天正18(1590)年、遂に豊臣秀吉は小田原征伐を開始、八王子城は6月23日、前田利家・上杉景勝を主力とする北国勢によってわずか1日にして落城したと伝わります。

 これを受けて「小田原城」も開城し後北条氏が滅びたのでした。
 
 なお、「八王子」という地名の由来は戦国時代に相模国(神奈川県)を中心として関東地方に勢力を持った北条氏(後北条氏)が深沢山(八王子市元八王子町)に城郭を築いた際、山麓に仏教の守護神・牛頭天王(ごずてんのう)の八人の王子を祀った八王子権現(八王子神社)があったことから北条氏はこれを城の鎮守とし、「八王子城」と名付けたことに始まると伝えられています。