八王子千人同心

八王子千人同心 時代を駆け抜けた誠の武士達

八王子千人同心の生き様 千人同心の歴史


武田氏 北条氏の滅亡

甲府城 さて、皆様は「八王子」と聞きますと、何を思い浮かべられますでしょうか。
 賑やかな街並み、緑豊かな高尾山、あるいは学園都市としての一面かもしれません。
 しかし、この八王子の歴史を語る上で、決して欠かすことのできない、誇り高き武士団がいたことを、皆様はご存知でしょうか。

 その名を、「八王子千人同心」といいます。

 本項では、この八王子千人同心が、いかにして生まれ、この八王子の地に根付いていったのか、その生い立ちの物語をお話しさせていただきたいと思います。
 特に、彼らの魂の故郷である甲斐の国、そして戦国の雄・武田氏の滅亡という、大きな歴史の転換点を軸に、そのドラマを紐解いてまいります。どうぞ、しばしの間、戦国から江戸へと続く、壮大な歴史の旅にお付き合いいただければ幸いです。

 八王子千人同心の物語を語るには、まず時計の針を450年以上も昔、戦国時代の甲斐の国、現在の山梨県へと戻さねばなりません。

 当時、甲斐の国を治めていたのは、言わずと知れた戦国最強の武将の一人、「甲斐の虎」武田信玄公です。
 その武田家の中に、「小人頭(こびとがしら)」と呼ばれる役職がありました。これが、後の八王子千人同心の直接の源流となります。

 「小人」と聞くと、少し不思議な響きに思われるかもしれません。これは、身分の高い武士ではなく、武士と庶民の中間に位置するような、実務を担う人々を指す言葉です。そして「小人頭」は、そのリーダーでありました。

 記録によりますと、九人の小人頭が、それぞれ三十人ずつの小人や中間(ちゅうげん)を預かっていたとされています。つまり、合計で三百人近い一つの集団を形成していたわけです。彼らの主な任務は二つありました。

 一つは、武田信玄公の居館である「つつじヶ崎館」の警備です。信玄公の身辺を守る、非常に重要かつ名誉ある役目でした。交代で昼夜を分かたず館の守りに当たり、主君の安全にその身を捧げていたのです。

 そして、もう一つが、国境の警備です。
 皆様、甲斐の国、山梨県の地図を思い浮かべてみてください。四方を山に囲まれた、まさに「山国」です。
 東は武蔵国、つまり現在の東京・埼玉。北は信濃国、長野県。南は駿河国、静岡県。そして西は相模国、神奈川県と接しています。常に隣国からの侵攻に備えなければならない、緊張感に満ちた土地でありました。

 このため、武田家は国境の重要な地点に、九つの「境口(さかいぐち)」と呼ばれる監視拠点を設けていました。
 この境口の監視もまた、小人頭とその配下たちの重要な任務だったのです。彼らは、敵の侵入をいち早く察知し、信玄公に報告する、国の目となり耳となる役割を担っていました。

 つつじヶ崎館という「点」の守り、そして国境という「線」の守り。この両方を担っていた彼らは、決して表舞台で華々しく活躍する武将ではありませんでした。
 しかし、武田家の屋台骨を、その最前線で支える、まさに縁の下の力持ちであり、信玄公の信頼厚い、精強な実務部隊だったのです。

 彼らは甲斐の山々を駆け巡り、武田家への忠誠を胸に、日々の務めに励んでいました。この甲斐の国での経験と、そこで培われた忠誠心こそが、後に八王子千人同心へと受け継がれていく、全ての始まり、「根源」だったのです。

 栄華を誇った武田家でしたが、永遠に続くものはありません。
 元亀4年(1573年)、大黒柱であった武田信玄が、天下統一の夢半ばにして病に倒れます。巨星、墜つ。この出来事は、武田家の運命、そして小人頭たちの運命を大きく揺るがす、暗い影の始まりでした。

 信玄公の跡を継いだのは、四男の武田勝頼です。勝頼は、父・信玄にも劣らぬ勇将であり、一時は三河国まで進出するなど、その勢威を示しました。しかし、時代の大きなうねりは、あまりにも無情でした。

 天正3年(1575年)、歴史に名高い「長篠の戦い」が勃発します。武田軍は、織田信長・徳川家康連合軍と激突。この戦いで、織田軍が投入した三千丁もの鉄砲の前に、武田自慢の騎馬軍団は壊滅的な大敗北を喫してしまいます。多くの宿将を失い、武田家の力は急速に衰えていきました。

 そして、運命の日が訪れます。
 天正10年(1582年)3月。勝頼の姉婿であった木曽義昌が、織田信長に寝返ったことをきっかけに、織田信忠を総大将とする大軍が、甲斐へと雪崩れ込んできます。もはや、かつての勢いを失った武田家に、それを防ぐ力は残されていませんでした。

 追い詰められた勝頼は、家臣たちと共に天目山へと逃れます。しかし、そこも安住の地ではありませんでした。3月11日、天目山麓の田野という地で、これ以上の逃亡は不可能と悟った勝頼は、夫人、そして嫡男の信勝らと共に、自らの刃でその生涯を閉じました。

 ここに、源氏の名門であり、甲斐の国に長く君臨した甲斐武田氏は、滅亡したのです。

 主君を失う。それは、戦国の武士にとって、自らの存在理由そのものを失うことに等しい、最大の悲劇であり、絶望です。昨日まで信玄公の館を守り、国境で目を光らせていた小人頭とその配下たちも、例外ではありませんでした。
 仕えるべき主君を失い、守るべき国も失った彼らは、一瞬にして路頭に迷うことになります。彼らは、人生最大の試練の時を迎えていたのです。

 さて、主を失い、先の見えない日々を送る武田の遺臣たち。彼らがそうして息を潜めている間にも、歴史の歯車は容赦なく回り続けていました。

 この時、関東一円を支配していたのは、小田原に本拠を置く後北条氏でした。そして、その北条氏が、江戸、ひいては関東を守るための西の拠点として、現在のここ、八王子の地に築いたのが、難攻不落と称された「八王子城」です。

 武田氏が滅んでから8年後の天正18年(1590年)。天下統一を進める豊臣秀吉の巨大な力が、ついにこの関東にも押し寄せます。そして、この八王子城が、凄惨な戦いの舞台となり、わずか一日にして落城するという、悲劇的な運命を迎えることになるのです。城に残った婦女子も自刃し、城山を流れる川は三日三晩、血に染まったと伝えられています。

 路頭に迷う武田の家臣たち。そして、これから戦火に晒されようとしている八王子の地。この時点では、まだ何の関係もなかった両者が、やがて運命の糸によって強く結びつけられていくことになります。甲斐の地で起こった武田家の悲劇。そして、この八王子の地で起こった北条家の悲劇。二つの大きな戦国の終焉の上に、八王子千人同心の物語は花開くことになるのです。