八王子千人同心

八王子千人同心 時代を駆け抜けた誠の武士達

八王子千人同心の生き様 千人同心の歴史


甲陽鎮撫隊と千人同心

徳川慶喜 慶応4年(1868)1月、旧幕府軍は薩長両藩を主力とする近代兵器と兵術に優れた官軍に鳥羽・伏見で完敗しました。

 1月12日大坂城にいた将軍慶喜は家臣たちを見捨てて海路江戸へ逃亡するのです。
 更に、1月22日には江戸城を出て上野東叡山に蟄居し恭順の態度を示すのでした。

 官軍が江戸に向って来る中、慶応4年(1868)3月1日、甲府城の確保のため、若年寄で国内事務取扱の大久保一翁の命令により新選組は名称を「甲陽鎮撫隊」と改め組織して、お手元金5千両、大砲2門、小銃500丁を賜り甲府へと向かったのでした。

 更に京都でその支配下にあった会津藩からも1200両を賜っているようです。
 しかしながら、その時京都からの新選組の生き残りの精鋭は約20名程度で、残りは、実戦経験もないような寄せ集め集団であったようです。
 明治時代に生き残った新選組副長助勤の永倉新八(1839~1915)は「甲府鎮部隊は勝海舟が主戦派の近藤率いる新選組を徳川慶喜に近づけまいとして甲府城攻めに追い払った」と述べていますが、その真偽は不明です。

 ところが、3月4日に八王子を通過したばかりの甲陽鎮撫隊でしたが、この日、すでに板垣軍の先鋒は甲府城に到着していたのです。
 続いて5日に敵本隊も合流してしまいます。合計3千名の官軍の手に甲府城を奪われた甲陽鎮撫隊は、ついに3月6日、甲府の手前の勝沼で決戦を強いられることになります。

甲陽鎮撫隊 近藤は勝沼の東の入口にあたる柏尾に布陣します。
 一時は300人にまで増えていた戦力は、この日の決戦までに脱走が相次ぎ、半数以下に減っていたといいます。

 対する板垣軍は土佐・因幡鳥取・諏訪の藩兵約1800人、10倍以上の戦力差がある上に、想定していた大善寺を本陣にできず、甲陽鎮撫隊は、わずか100人ほどの戦力を、街道沿いに細長く薄く配置せざるを得なかったのです。

 これではいかに勇猛な新選組の生き残りがいる甲陽鎮撫隊といえ、わずか2日後、甲州勝沼で板垣退助率いる新政府軍にあっけなく敗れ、撤退することになります。

 勝沼の戦いでは地元住民が板垣に協力したといいますから、圧倒的な戦力差ということでしょう。3月8日に八王子で江戸引き揚げが宣言されて、甲陽鎮撫隊は一瞬で消滅することになります。
 近藤勇等は甲州街道を通らず、青梅みちを通り下総・流山に戻りますが、官軍に捕まり、板橋付近で斬首されるのは、翌月の4月25日のことです。

 実は、板垣は決戦ひと月前の2月14日、姓をそれまでの「乾」から「板垣」に戻しています。
 板垣の先祖は戦国時代の名将・武田信玄の重臣だった板垣信方で、なんとこの日は信方の没後320年目の命日だったのです。
 その日をわざわざ選んで復姓し、さらに甲州の村々には、信玄公の重臣の子孫が甲府に還ってくるということを宣伝したようです。
 甲府では「信玄公の治世が戻ってくる」と民衆が湧き立ち、農兵や民兵が組織されて板垣軍に合流したといいます。信玄公は甲甲陽鎮撫隊府の民にとっては神のような存在であり、板垣の武田仕込みの謀略手腕発揮ということでしょうか。
 こうして板垣軍の兵力は徐々に膨れ上がりました。

 実は、この武田の思いは、千人同心にも微妙にかげを落とします。戦国時代に武田家が滅んだ後、多摩地方には元武田の家臣たちが多く移り住み、これが千人同心の原型です。
 新選組や甲陽鎮撫隊にはこの千人同心や武田旧臣の子孫も多かったのです。このような者たちにとっては、板垣軍と戦うことは「信玄公(の重臣)の子孫」と戦うことになる。決戦までに脱走に次ぐ脱走が起こり、鎮撫隊が半減してしまうのも、板垣=信玄公の重臣の子孫と直接戦うのを避けたかったというのが理由だったかもしれません。

 さて、甲陽鎮撫隊の残党を捕まえるということで、早くも3月9日、新政府軍の一部が八王子に姿を見せはじめ、11日には甲州方面の新政府軍本隊も進駐してきました。
 その数は、この時すでに2000を超えていたとされており、新選組とゆかりのある千人同心がまだ残っているとはいっても、新政府軍に抵抗するのはもはや不可能だったのでしょう。
 いやむしろ戦いたくなかったというのが本当のところかもしれません。そこで千人頭は、武装放棄して新政府軍を甲州街道沿いで丁重に出迎え、反抗する意志のないことを「誓紙」を差し出し誓い、同時に主家・徳川に対する寛大な措置を嘆願したのでした。

 板垣退助率いる新政府軍は新選組発祥の地である多摩地方を、思っていたより厳しく巡検しなかったようです。
 このとき板垣退助は、八王子千人同心は武田の旧臣であるから、本来、徳川家には怨みはあっても恩などないはずなので、今後は朝廷のために生きよと言い残し、八王子千人同心には何の咎めもなかったといいます。

 この2日後、勝海舟と新政府側の西郷隆盛との会談がおこなわれ、新政府による江戸総攻撃を中止することが決定され、翌4月11日、江戸城は無血で新政府軍に引き渡されます。
 その後、この決定に従わない旧幕臣の一部と新政府軍との間で、市川・鎌ヶ谷・船橋周辺で戦になりましたが、装備に勝る新政府側が勝利しました。