八王子千人同心の生き様 千人同心の歴史
家康の台頭と地盤固め
甲斐武田氏の滅亡という、戦国史に残る大きな悲劇により、主君を失い、守るべき国も失った旧武田家の家臣たち。その中には、もちろん、後の八王子千人同心の源流となる小人頭とその配下たちもおりました。彼らは一瞬にして路頭に迷い、あるいは息を潜め、あるいは離散し、まさに絶望の淵に立たされていました。
しかし、歴史というものは、実におもしろいものです。
一つの終わりは、時として、全く予期せぬ新しい始まりを呼び起こすのです。
武田の遺臣たちにとって、その運命を劇的に転回させる巨大な歯車が、京都で、そしてこの甲斐の国で、静かに、しかし確実に回り始めようとしていました。その歯車を回す中心人物こそ、皆様ご存知の、あの徳川家康、その人でした。
武田氏を滅ぼした織田信長は、甲斐の国を家臣の河尻秀隆（かわじりひでたか）に与え、支配させていました。旧武田の家臣たちは、昨日までの敵であった織田家の支配の下、屈辱と不安に満ちた日々を送っていたことでしょう。
ところが、天正10年（1582年）6月2日、早朝。日本の歴史が、その音を立てて動きます。
京都、本能寺。天下人目前であった織田信長が、腹心の家臣、明智光秀の謀反によって討たれるという、あの大事件、「本能寺の変」が勃発したのです。
この一報は、瞬く間に全国を駆け巡り、激震を走らせました。そして、信長が君臨していた日本の中心に、巨大な権力の空白地帯を生み出したのです。
この知らせは、甲斐の国にも届きました。すると、どうなったか。信長の威光という「たが」が外れた途端、それまで押さえつけられていた旧武田家臣たちの不満が一気に噴出します。
各地で一揆が勃発し、甲斐を支配していた織田家の重臣・河尻秀隆は、この混乱の中で命を落としてしまいました。
信長が死に、その代理人も殺された。甲斐の国は、再び主のいない、無主の地となったのです。
すると、このかつての武田領という、いわば「宝の山」をめぐって、周辺の戦国大名たちが一斉に動き出します。
北からは越後の上杉景勝。東からは小田原の北条氏直。そして南、駿河の国からは徳川家康。三者の思惑が複雑に絡み合い、甲斐・信濃の地を舞台とした、熾烈な争奪戦が始まったのです。これを、その年の干支にちなんで「天正壬午の乱（てんしょうじんごのらん）」と呼びます。
さて、この時、当の徳川家康はどこにいたかというと、実は信長に招かれ、わずかな供回りとともに、堺（現在の大阪府堺市）におりました。
本能寺の変を知った家康は、まさに敵地のど真ん中に取り残された形です。明智光秀の追手から逃れるため、険しい伊賀の山道を越え、命からがら領国の三河へと逃げ帰る。これが、有名な「神君伊賀越え」です。
九死に一生を得た家康。普通であれば、まずは自国の守りを固め、体制を立て直すのが定石でしょう。しかし、家康は違いました。彼は、この混乱こそが、最大の好機であると瞬時に見抜いたのです。家康は、領国に帰り着くやいなや、間髪をいれず、甲斐・信濃への出兵を決定します。
なぜ、家康はそれほどまでに甲斐の国を求めたのでしょうか。
一つは、もちろん戦略的な理由です。背後にある甲斐・信濃を確保することは、自らの領国を安定させ、来るべき天下獲りの戦いにおいて、極めて有利な位置を占めることに繋がります。
しかし、もう一つ、それ以上に大きな理由がありました。それは、甲斐の国に眠る、最大の「宝」の存在です。それは金山でもなければ、豊かな穀倉地帯でもありません。家康が渇望した宝、それこそが、武田信玄が鍛え上げた、あの「武田の旧臣たち」という、生きた人財だったのです。
家康は、生涯を通じて、武田信玄を最大のライバルとして、そして最高の師として尊敬し続けたと言われています。家康といえば、元亀３年(1572)、武田軍との「三方ヶ原の戦い」で惨敗を喫していますが、この時家康自身は自刃を覚悟したというほどに生涯の中で最も不覚な戦いであったと述懐しているほどに武田軍団の強靭さ、結束力の強さは、痛感していました。
また、武田軍団は先祖伝来甲斐国とその周辺の地理を熟知しているわけで、敵に回せば恐ろしい軍団である反面、支配下に取り込めばこれほど力強い軍団はなかったはずでした。 そして家康は、武田軍団の強さの源泉が、個々の兵の勇猛さだけでなく、それを支える家臣団の厚い忠誠心と、優れた組織力にあることを、誰よりも深く理解していたのです。
家康は、甲斐へと軍を進めるにあたり、ただ力で制圧しようとはしませんでした。彼は、巧みな外交と情報戦を展開します。そして、路頭に迷う旧武田家臣たちに、こう呼びかけたと言われています。
「甲斐の国は、信玄公以来の家臣である、汝らが治めるべき土地である。我こそが、その手助けをしよう。我に味方するならば、汝らの旧領を安堵し、しかるべく召し抱えよう」と。
この呼びかけは、絶望の中にいた旧臣たちの心を、強く揺さぶりました。
彼らの前には、三つの選択肢がありました。東の北条につくか、北の上杉につくか、それとも南の家康につくか。
北条氏は、武田家とは長年のライバルであり、同盟と裏切りを繰り返した、いわば因縁の相手です。上杉氏は、川中島で激闘を繰り広げた宿敵。どちらも、心から忠誠を誓うには、ためらいがあったことでしょう。
そこへ、敵でありながらも、主君・信玄を深く尊敬し、自分たちの価値を正当に評価してくれるという家康が現れたのです。
しかも、家康は武田家と同じ、源氏の流れを汲むとも言われています。家臣たちの中には、依田信蕃（よだのぶしげ）のように、いち早く家康の先見性を見抜き、その味方となって、他の旧臣たちを説得して回る者も現れました。
こうして、多くの武田遺臣たちが、雪崩を打つように、新たな主君として徳川家康の元へと馳せ参じたのです。後の八王子千人同心となる小人頭とその配下たちもまた、この歴史の大きな流れの中で、徳川家康に自分たちの未来を託すという、人生の大きな決断を下したのでした。
家康は、彼らを温かく迎え入れました。
そして、その約束通り、彼らを徳川軍団へと組み込んでいきます。例えば、武田軍の中でも最強と謳われた山県昌景の「赤備え」部隊。これを再編成し、自らの腹心である井伊直政に預け、徳川軍団最強の精鋭部隊へと生まれ変わらせました。
家康は、武田の軍法や組織を積極的に取り入れ、自らの軍団を、質・量ともに、飛躍的にパワーアップさせたのです。
そして、「小人頭」とその配下たちは、どうなったか。
江戸時代に書かれた地誌『桑都日記』の天正１８年７月の記述には、「甲州の小人頭を八王子郷に移し、甲州口の保障となす」 とあるのが認められます。
また同書には、「この年６月２３日、城陥りし後、土地未だ静謐ならざるなり。ここにおいて小人頭及び小人をこの地に移し、以て警備をなす」との記載があります。
また、発足当時の状況について、徳川幕府の正史『徳川実紀』にはこう書かれています。
「（家康公は）江戸で長柄の槍を持つ中間を武州八王子で新規に五百人ばかり採用され、甲州の下級武士を首領とした。その理由は、八王子は武蔵と甲斐の境界なので、有事の際には小仏峠方面を守備させようとお考えになったからである。同心どもは常々甲斐国の郡内へ往復して、絹や綿の類を始めとして甲斐の産物の行商を行い、江戸で売り歩くことを平常時の仕事にするようになされたのだ。」（現代語訳）
確かにその頃は、まだ、家康の地盤は確固たるものとは言えず、武田や北条の残党は八王子周辺にかなり散在していたはずです。
こういった残党の動きを封じ、あるいは根絶やし、さらには万一、甲州街道を使って敵が攻め寄せた場合、江戸からの援軍が到着するまでの間、武蔵と相模の国境にある小仏峠にて、防衛線を築くことからも、かつて武田軍団にて境口の道筋奉行として活躍した九人の小人頭と小人・中間たちの軍事力及び経験は、家康にとり、これほど頼りになるものは他にはなかったかもしれません。
つまり、家康は、彼らのこれまでの経験と能力を高く評価し、「甲州九口之道筋奉行（こうしゅうきゅうくちのみちすじぶぎょう）」という、まさにうってつけの役職に任命したのです。この役職名、どこかで聞き覚えがございませんか。そうです。前述した彼らが武田家で担っていた、甲斐の国の九つの国境「境口」を監視する任務と、ほぼ同じ役割です。
なんという運命の巡り合わせでしょうか。彼らは、一度は失ったはずの故郷、甲斐の国の守りという任務に、再び就くことになったのです。守るべき主君は、武田から徳川へと変わりました。しかし、武士としての本分を全うできる場所、自らの能力を存分に発揮できる舞台を、彼らは再び手に入れたのです。
武田氏が滅亡した、天正10年3月11日から、わずか数ヶ月。絶望の闇の中にいた彼らに、徳川家康という、一条の、しかし、極めて力強い希望の光が差し込みました。失われたはずの武士としての誇りと、生きる道が、再び彼らの眼前に開かれた瞬間でした。
しかし、皆様。この物語は、まだここで終わりではございません。甲斐の地で再び役目を得た彼らですが、それはまだ、八王子千人同心へと至る、長い道のりの序章に過ぎなかったのです。彼らの真の故郷となり、その魂を咲かせる舞台となる「八王子」。その地へと彼らが導かれるには、もう一つの大きな歴史の転換点を待たねばなりませんでした。
それでは、いよいよ物語の舞台を、関東、そして八王子へと移してまいりましょう。
