八王子千人同心

八王子千人同心 時代を駆け抜けた誠の武士達

八王子千人同心の生き様 千人同心の歴史


千人同心の解体

箱館戦争  6月、八王子千人同心は武装解除され、正式に解体することになります。
新政府は、幕臣と同じく千人隊士にも朝臣となるか、徳川家に従って駿河に移住するかの選択を迫まります。

 8月には徳川家を継いだ田安亀之助に駿・遠・三州等70万石が与えられ駿府に移り住みますが、千人同心の中で徳川家に従って駿府に移住した者は河野仲次郎ら千人隊之頭と呼ばれる人たちで11名、朝臣派として職に就く者は67名、中には新政府に出仕した者もいましたが、大多数は「脱武着農」、すなわち武士を捨て農民として多摩地域で生きる道を選んだのでした。

 農業に従事する者は約20名であったといわれます。
 新政府に出仕した者は当初肥後藩の支配下で「護境隊」として多摩地区の鎮撫を担当し士族の身分を得ることになりますが、帰農者は戸籍上「平民」とされ従来の武士としての社会的・経済的特権が剥奪され、各地の名主の支配下に入ります。
 つまり、従来受給していた扶持が無くなる上に免除されていた税を払うということを意味します。
 ここに八王子千人同心は完全に消滅することになるのでした。

 なお、駿府に移り住んだ千人同心は、半士半農の経験や知識を活かして、掛川における織物技術の指導など、その才能を発揮したものもあったようです。
 しかし、現地での暮らしは決して安楽なものではなかったようです。
 結局、移住した多くの旧千人隊士は、その生活に耐えかね、帰郷を望むようになりました。 

 明治6年(1873)には、旧千人隊士の指導的立場にあった河野仲次郎が、明治11年(1878)には志村源一郎が上京して大蔵省に出仕し、前後してほとんどの旧隊士は帰郷を果たし、彼らの徳川帰参の夢は水泡に帰したのでした。
 その後も平民籍となった旧千人隊士は、復籍と復禄を求める復権活動を開始し、明治33年(1900)、ようやく請願が受け入れられ、六十八名の士族編入が許可されたといいます。

 また、明治元年(1868)10月13日には天皇が初めて東京に到着され、江戸城を皇居とし東京城と命名しました。
 また、11月17日には千人隊拝領屋敷の没収命令がありましたが、陳情の結果12月28日「7ヶ年の借地権と屋敷門の撤去」が決定しました。
 その後明治5年(1872)には対価を払って払い下げを受けました。この撤去された屋敷門は現在本立寺(寺町)と横川邸(元八王子)に残されています。